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流れから作られる”繋がり”

たぶん。

前半はメモの羅列で理解には難しいんだけど(だって他者のアタマだもの)、進めるうちに「脳の使い方(使われ方)」が感じられると思います。

それが「正規」という意味はなく、寧ろ”反対”の口かもしれない。

それは右利き・左利きとかもあるかも?しれない。

私は右利きだけど、左手も結構使ってきた(笑)


アタマから動き、”行動”へ流していくという違い。
一度に一遍に沢山の事はできない、という事を利用(同じ次元・この瞬間の話)

神のみち(イメージ)
その通りがスムーズでなくなる滞り。その解消のためきちんと通りが良くなるような調整、”できごと”が始まる。

身体(感覚)と処理(脳)間においての連携は、自然な流れで起きてくる。「外の現象」が、ソレに合ってくる。”合っている”のは、”外”の処理はいつもこの”私”という存在の中で行われているものだから。


逆に言うなら、外の現象に対して、”私”の状態に大きなズレが生じてなければ、ことは何事もなく通り過ぎたただの”流れ”だった。

それを見る”私”、処理・対応する”私”と、アイダアイダに必ず挟まっているこの”ワタシ”という存在によってすべて決まっている事が薄々視えてこないか?

・・・

言葉の表記はコトバ遊びの一面だけでなく、「オト」が重要な意味を成している、と私は感じている。

”言葉で取らずに音で取る”
意味:言葉自体の意味で捉えずに音から”空間へ移動する”→”映像”

(あー…、やっとここへ辿り着いたよ)
【音から映像を作る】
流れのままに書き出したメモ、連なる言葉たち。書いた事によってそのイメージが脳内に出された。

”言葉で取らずに音で取る”
そうして別次元、空間へ入ることができる。(戻らなければ、今までこの次元で書いてきたココから外れていく)

こうして幾層も脳内は広がりを持っていること。

(話を戻して)
現象に携わり、この身を通して行っている限り、自分の中に処理は行われていて、大きな差/エラーが現れることで目視する自分の内面。イコール。

露わになって”私”は自覚することができる。

・・・

見えない記憶というその動作に現れる動きは、”現実”との違い、時のズレ、空間違いであることを現象から教えられる。

一本で繋がらない。
従来通り繫げれば”エラー”の結果が現れる。

どこがエラーか。確かめるための現象だ。

・・・

寝起きのアレ(昨夕)、あの時思った「整理」は、情報の整理、確かにそうなんだけど、アタマの中と(身体記憶含む)「現実との結果」との照合、繋がりを作っている、と言えたか。そしてこちら(意識)であまり分からないままペンディング、翌朝「あ、こういう事だ…」とここ(理解)へ繋げてくれる。

内側のハタラキを少し見せてくれる夢、トランス(状態)。

ソレをこちらの意識が捉え、ここのサイクルは回る。「捉えた」事でまた循環を繋げてくれて、”整理”が入り再び上がってくる。

表と裏、主と副
表現はあくまでも表現だけ。どちらも「主」になる。
この異空間を飛び回っている人、ニンゲン。

・・・

他者をわかって(分かって)いくというのは。

他者に投影する自分をそこから”分かっていく”ことと視えた。そこまでにとても時間が要ることを知った。

”自分”が見ている状態から、「他者を見る」に替わっていくという事なんだ。

まったくの逆になっているというのはあの世でなくこの世か?

”自分を他者に映し、他者と知るには自分を外していく”

この簡単な表現が、今まで幾度となく見てきたこの表現の意味がやっと現実で行われた。

他者を観ている時、自分が最小になるように。


すべてランダムにメモを拾った。既に最新までメモしている事の内容に繋がっていたことも確実に見えている。

そして、改めてここへ移し(映し)ながら、観えてきたのは、「事象は時系列なんかではない」という事。

コトは全てバラバラに起きていて、それを都度気づいた事としてメモしているから、逆に日付通りに並べていくと”分からなくなる”。並べてしまえば人はそれを”そういう順序”として捉えたくなるだろう…と思う。


「待つ」というのは、その時点での、それ迄に起きたコト・モノで括ることをせずに「先延ばし・保留」にする行いで、ただやたらに放置する意味でなく、引っ掛かったままで置いておくこと。

それが上記のメモ内容の中にも行いとして実施している事は書かれている。

ただ、最新のメモ内容では、これ”先延ばし”しないその事にも触れている―――、一旦は自分の解答を出すこと。そこからまた始まるから。


以下その時の”最新メモ”。

外周(?)
それが「そういうコトなのか」を見せてくれるように、何度か事象を変えて起きてくれる現象。

”何度か”起きてくれる事で、自分自身の動きに注目、注意深くなる様に仕向けているようにも思う。

「あれ…?」
これを引き出すために。


途中まではこの解答…、止めなければちゃんと続いてみえてくる別目線がある。

・それだけ材料が増えて”判断”ができるという事
・だから”解答”が変わっていくという事
・一度出した答え、「その”答え”+〇」、そして更に『「」+…』となる様なイメージ。

自分の動作に目がいっている、つまり意識が行っているという事。

この流れを更にトータルでみて最終的に括る―――、「カタチにしていく流れ」だと。

こうして何度も一旦の結果を出力してしまって、その”結果+〇”の形をとっているように見える。だから「仮」と思うなら続きがあること、変更があることが許容範囲になるし、結論として思ったとしても、「ちょ待てよ…?」の余白を残せば同じことでもある。表現は何でも良いのはよく書いているけども、要は、その状態を自分に与えること。これが自分自身に与える影響。


このメモに繋がってきたのも、記事を書き、その状態を再度把握し、また全く忘れていた時の自分の動作を観てふと気づき、”+”が加算され、それ迄を含んだモノ、解答が更新されたと言えた。

もっと言えば、”それまで”の回答が更新されるのではなく、やはり”層”のように感じる。

どんどん外側に1枚、1枚とソレを含みながら大きくなる”解答”、そんな感じがした。だから変わったのではなく、違う層で観ていると言えた。

層というのかもしれないし、うず(巻き)というのかもしれない。

・・・、これを(この状態を)、流し続けて書き出し始めるのが私の嫌う状態で、”思考”に入ってしまったと思う状態、湧くではなく、考え出しているつまらなさ…。

(で、ここでメモを止めている(笑))

・・・

で、ここ迄さらに流して観ると、先にバラバラの湧いたものに意識が向き(意識されるから気に止まっているので当然)、”それだけ”では何の解決にもならない部分・点のような存在は、ポツンポツン…と出ている事がまず言えて。

その時点では事象としてしか括れず・観えずにあったものを、それと同様のレベル(?)次元で起こっているようなモノだけをこうして集めた”メモ”が、材料として湧き出し始めて。

それらが幾らかまとまってくると、「そうか!」と少し強めの、大きめの括りが観えてくる。それで一旦はかなりの程度で片付く。


詳細という小さな湧き出し続けたメモを見返すことでよく分かるのは、「かなりの程度で片付く」と感じたそのまとめの表現の中に、しっかり小さなメモ(事象)の中で既に現れているコトをまとめられているに過ぎない、と感じるものが視えてくる。

という事から。

”その時”では分からない・見えてこないものが、たくさん散々あって、それらの「まとめ」という作業が脳内(意識上)で後に行われるのならば、小さな”時点”で、軽く気づきに上げておく作業は可能、ということ。

意味が分かるのは後からなので、それは「材料」としてほんの軽く一旦でも気に上げること。そうでない、後の”まとめ”は、まとめという事すら”分からない”という事になる。


このくり返しが行われている事は、こうして脳内にまとまり、”カタチ”を作っていくという事がうっすらとでも観えてくるんじゃないかと思う。

何度も何度も、幾層も重ねて。


(次回へ続く)

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!