逆回しは内側でしか出来ない
「進んでいる」も何もない、”進む”感覚
モノ・コトの変化を見て「時」というものを朧げに拾う
その結びつきまでは全くまだまだ遠いな・・・
人が、他の生き物と違う、”逆”なのは、振り返ることができるからで、そしてその「逆向き」によって人の世界は作られてきたという事だ―――
毎度のことながら、言葉には意味があるので、この頭の中の空間を見て付けている言葉(表現)は、外にあるリアルの世界とは完全に一致はしないし、外世界で考えたら”合わない理屈”になる(部分がある)。
向き(の違い)の話をしながら、「動きの向きと頭での咀嚼」を観ているし、色々な層(空間)の少しずつを断片的にちょびちょび観るような細切れなどで、しっかりと”整理”されて行くまでには少し時間がかかる。
”脳が開けた”と感じたその事だけでなく、やはり同時にふと手を伸ばしたコトの内容は、今回の事とも関連していて、そんな脇道からの合流もあったから余計にアタマは膨らんだ。
”私”に任せると、そういう散らばったものは取り敢えずでも片付けてスッキリしたいのだけども、今考えると頭が重いので、すぐに書けそうな、でもこれも別の「あー、そういう事か…」の結構な気づきをくれたものとして書いていく。
・・・
一番「嬉しい・楽しい」と感じているのは、”その時”だけで、「いざそれを行う時」というのは、必ずしもその喜びがあるわけではない。
私の中の(頭の)結論はそういう事なのだけど、そしてこれはよく言われる事でもあると思うのだけども。私が自分で”実感”としてはっきりと掴んだ(把握した)のはこれが初めてだったから。
この現象自体は今までに何度も体験している。だから「あぁ、今までのそれはそういう事だったのか…」とエピソードは簡単に引き出せる。だけど今までは、私の奥からの実感、「言葉」との結びつきがまだなされていなかったのだと思う。自身が体験している事を、言葉でその状態を自ら説明できることで、この自分が納得し、それを保存する…そこまでで”完結”。
で、今回その事を実感できたのは、”嬉しい”と脳内の興奮にあった21日、実際にnoteに書いて行った22日(アップは23日)。書いた日の夜寝る前には既に、「書いた」という実行の事実と終わったという思いだけ。そこには前日にあった興奮など皆無だし、「コトを行う時には既に終わっている」という事が頭に浮かんでいた。
⦅そりゃそうだよなぁ…⦆
脳内に湧き立つその短い”感情”。それは長く維持されるものじゃなく、また、”実行”という動作に移ることで、それはもう既に”楽しみ”の域から外れた別のモノへ意識は移ってしまっている。「感じているそのコト」と、それを実際に「やる」という事は、同じ一連で繋がっているようで必ずしも一本の線ではないと思った。
詳細に書けば、「書く」という事によって、その時には”明るさ”よりも冷静な頭がしっかりと働き出してしまい、それまでを掻き消してしまうかのようにも思えた。書くことにより次々としっかり読む、まとめる、内容を把握するなどの「人」の頭が、どんどん働き出してしまったから、と思った。
この「作業」とのバランスが程良い人や、その思いと外の動作との結びつきがうまく出来ている人は、自分の中に感じたそれを外まで滑らかに繋がるようにな流れがある(持っている)のだろうと思う。
そんな事を思っていると、そこで考えられるのは、内側から湧いたものだけでなく、外へも匹敵するソレ(何か)がうまく繋がっていれば、内外はスムーズに切り替え(繋ぎ)がなされつつ、それが外へ向けての自然な誘導として出力が可能なんじゃないかと。
人の内側に湧く思い、それを絡めた動き。
人の一連に見えるその流れは、本当にかなりのバランスが取れている事によって「丁度いい」が手に入っている。自分が、違和感ややり易さ・やり辛さなど何も感じもしない「その状態」にあるという事は、本当に奇跡のようなものだと思う。
調子の良い時にはそれを感じることができなくて、不調の時にやっと感じることができる。だけどその不調時は、今度は不快として引っ張られてしまい結局根本を観ることなく”解消”でスルーしていく。
まずは解消したいと思う。私は今までに何度もそうしてきたと思う。
だけどそれが、「また」という事になると、「はて…」とやっと少し考え出す域に入って行く。”同じ事”が自分に起きているとやっと気づくことができる。
今の時代、動き(流れ)が非常に早くて、楽しいものも簡単に手に入ってすぐに自分は満たされる…感覚になる。便利な反面、確実に劣っていくことを今回の”脳開き”で一部感じた。
→→→の方向だけにずっと流れているばかりだから、「自分」の内側が育つ←←←の時間が極端に少なくなっている。これが表面だけ、浅い所しか動いていない、と以前に感じた事でそこに言葉が付いたと思った。
”逆向き”の時間は、自分の内側が育つ「私の時間」。外側の流れその時間は、大勢の他者という大きな世界で、誰かしらの他者のリズムになっている、または集合的な意識のもの。自分の時間はその向きではない。
だけど、そんな事がなんとなく理解されるまでには、それこそ沢山の経験と、いろんな出来事が欠片としてでもこの自分になければ始まらない。人の成長、進捗というのは、本当によく出来ているものなんだと、つくづく感じた。
余談)
時の流れ、「時間は過去から未来、ではなく未来からここへ~」という考え方があるけども、これも少し頭に引っかかってくれた。
言葉によって”地点”を決めなければ、ただの向きだけであって、向こう(未来)からここ(現在)という向きでの話になっている。私の中では表現は波でも草でもいい、揺れ動いているその向きから”流れがある”と認識するだけ。
そして”向こうからここ”というものはここで終わる事ではなく、確実に無意識に残る大量のデータ、未来の材料。これを活かすには”過去”へと流れて行ったそれへも時間を使うことが確実に有効。普段に人が無意識にでも行っていること。
私は今までに”記憶の再生”という表現を、多くの場合でネガティヴなものとして使ってきたけども、今回のことでは、捨てきれないものだし無意識に張られた脳内の強固なネットワークである事も痛感した。
そして材料となる経験が多くなってきてこの逆向きが回り出す(顕著になる)という事を感じて、単なる振り返りや今後に活かすその材料という事だけでなく、「自分を作る時間」がそこに出来ている、と感じた。
同じ”輪”の中を回っていない、層が違うという言い方もできる。人はたったひとつの層・空間の中で生きているのではなく、幾つもの層をあちこち行きながらそれぞれの空間を広げている。
自分の経験の全てを繫げる内側が、大きく広がっていくのは、逆向きの時間が採られている時。地点をあまり深く考えなくとも、人が普段の無意識でやっている事には、機能的な意味があることも事実だろうと思う。
実際に「逆へ回して」いる時、それはこの「頭の中」でしかないのだから。
「リアルに時なし、脳に時あり」
「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!