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感動の多い一日

これね、ほんとにすごいと思うのだけど。

若いころなどは、それを見たことはなかったし、本当にここ最近の、何回かのサイクルの中で「目にしていた」ものなんだけど。

お腹が前に出るなどの肉付きによる体型崩れとはまったく違う、「横に広い」状態を、目視でしっかり感じていたものだから…。「骨盤」の話をしているんだけど、「ゆるみ」の話を書いているのだけど。

身体自体から直接に”ゆるみ”を受け取っているんじゃなくて…だけど、

・今まで普通にできていた事が、そのちょっとした動作が何らかでできない
・漢方も飲み続けている(条件を変えていない)

のに、「普段」が保たれない状態が現れる、という事に、少し自分の中で「普段の状態がそこにない」という予測から方向は絞られていた、という事がまず第一段階としてあって。


その後、「目視」できる状態をそこに見た…、自分の体型への違和感、いつもと違い、正面に見た自分の身体”骨盤”が「広い」という事がわかった一昨日入浴前のこと。

その事から少しずつ、「やっぱり緩い状態だよな…」とあたりを強める。この目視も何度目かのことで、今まではただ、「そんな気がする(?)」という程度できっと、忙しくもあり深入りしなかったのだけども、薬の服用もしながら起きた今回の事には、自分の中で幾つかの疑問を頭に浮かべていたものだから。

痛みは数日前に書いた時以降、酷くならず落ち着いているも、身体の動かし方には注意を継続していたのだけど。そして広い骨盤を目視の翌朝、今度は生理が始まる気配がうっすらと目視できた―――、「あー、そういう事か…」と納得へ近づく。


骨盤の開・閉状態が、ここ数か月で顕著に確認される状態にあり、それによって私の動きを調整する、”機能”優先の動きをとらざるを得なくなっているのだけど、年齢的なこともあり、ずっと同じ調子ではなくカラダを観ながら無理せず、テンポを変えながらと工夫が必要な状態にある事は確かみたいだ。

強い痛みは持続しないのだけど、痛いときには何してもイタイ、というほど普段の動きができない”不安定”な状態に置かれたため、それだけ「固定」がゆるんだ状態にある、ということがよく分かった。

これはかなり感動した。


骨盤話はあまりに感動したので、書いてしまった(*^^*) ちょっと予定を変更して違うものを書いて行こうと思います。

って。

日曜はもう、ハプニング続き?!でまたまた驚いてしまったので、早速の脇道へ。

昼前に、退院祝いを兼ねて、主人は友人と食事という事の予定で出かけて行ったのだけど。

数時間は帰宅しないのはいつもの事なので、私はそれが決まった時点で上下の掃除の予定を入れていた、のだけど。

”ガチャ!”

『な、なんだ、どうした??』

お祝いと手土産を持って我が家で少し話をしよう、ということで友人二人は予定していたらしく、私は自分の予定をセットしていたから「うん」とはいえずに…。もうどれくらいぶりか、顔見知りの主人の友人たちにお礼と理由を伝えに外へ出た。


話を聞くと、主人には言ってなかったけど、「痛み」などを気にかけて我が家が良いだろうと、知人は決めていたらしくて。結果的には「ごめんね」と私は伝えたのだけど。

簡単に現在の様子と、「・・・、そういう事はやっぱりはっきり言わないから、たまに”大丈夫?”と声をかけてもらえたら…」と伝えておいた。

「大変だね…」
『大変だよねぇ。私も更年期で腰が痛いだなんだってやったりしてるから、もうお互いさまだよねぇ(笑)』
「あぁ…、そう見えないけどね?」
『そうだよね、私もそんなになると思ってなかった(*^^*)』

折角来てもらって、本当に申し訳ないと思いつつ、端から言っといてくれれば良かったのに…とも思いつつ。

主人たちはどこかへ出かけて行った。


骨盤のゆるみの話で一旦終わって、ワン散歩へ行く所に主人が帰ってきたからまたビックリしてしまったのだけど。

重ね重ねの驚きと感動で、「私の土用が思い切り明けた」と思った。お祝いまで届いて(笑)、本当にすごいタイミングで感動したので間に挟んでしまった。(私にとっては”記録”として良し)

あと少し、冒頭の骨盤話からフムフムした事を、少し書き足しておきたい。


これは昨日のnoteとも、やはり関連するのだけど。

忘れないうちに先に余談を書いてしまうと、”関連”するのはもはや当たり前で、その次元で”捉える”という事は、「同じように見る」という事の言い替えでしかないと感じる。

”その目線”が加わった事により、入り口(扉)がそこから入る(見る)状態になるため、これを表現しようとするこの”私”が言葉にする時、自然とその感じを「関連している」と認知する。

”私”というものは、機能自体をずっと見ているわけではないので、こちらで何かを”受け取る”時にはどこかの一部や、ある程度がまとまったカタチになったものを「把握」できる認知。言葉で表すとはっきりとそのものがあるかの様になってしまうけど、そこに感じるものに言葉を付けているーー。


私が目視し、自覚した状態は既にあった。一度だけでなく数回その”感じ”を見ているので、しっかり記憶している。だから「まただ」とか「やっぱり」という感想が内心に出る①

世にある様々な情報を、より多く先に知っておこうという考えは今の私にはない為、基本的には「確認」のタイミングで自分の中に入れる・入ることが多い、という状態がある②

普段の中で、目にするSNS、ブログなどで、「その言葉(表現)」は目にする事はある…、流し読みの入力情報③ 

①~③すべてが繋がる時、「あ~、そういう事か」と全体像が見え出す。これは分かれていたそれぞれの情報が繋がった状態にあるというだけで、詳細に詳しいという事ではなく、その分かった全体を入り口として、今までの自分では開かなかったその扉の向こうを観ることで求めれば詳細は手に入り、少なくともその世界を覗ける状態は作った事になる。


それぞれに、多くの事を持っていたとして、さらにそれらの多くを繋げた状態にあるということが、”見通した”状態にあるという事なのだろうと思う。

これは私の内訳であって、②③は入力という形で括れ、内容の濃淡はそれぞれである事と、その内容によっては精度も変わるという事に繋がるだろうと思う。

意味が分からない、自分にとって意味の付かない状態がただあり(①)、その近辺を現す簡単な用語・言語情報はまた別に保管されていて(③)、結びつきが少し多くなった所で、確認するための扉を開く(②)―――。

こういう事だったんだ…

過去の情報も含め、全てを今のここへ持ってきて、まだはっきりとは分からなくてもまた、大まかな「流れ」を観ることの材料になるのだろうと思った。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!