流れのままに
雨でワン散歩がないのでもう一つ。
今、「流れ」の話になっているから、流していきます(*^^*)
”意識”が自由に動き回ると、くっつく事も、離れる事も容易に、自然と出来るようになります。
例えば。
私は元々、大雑把に物事を捉える所があるのだけども。いや、厳密には「元々」じゃなくて、強迫性障害を経験したからこそ反転してきた、と捉えているけども。
私は細かい事にフォーカスするのって簡単です。目の前の事のアレコレ。小さなことが目に入る・気づくのも普段では普通です。
その時、力むことなくフ~ッとそこから離れて、目の前の事象の詳細が分からない程、自分を高く、俯瞰できる位置まで持っていってしまう。だって、「意識は自由」だから。
ちょっと、似たような雰囲気のものに「目を逸らす」という事があるけども、私の中では似て非なる位置づけでね。
これ、また「引き目線」で読む内容ね。
「対象から目を逸らす」のではなく、ここでは高い位置からもっと「広範囲でソレごと観る」という意味。「視野から視界へ」ね。
現実的にそこからエスケープもある話なのは解ってる。それが必要な状態もあるから。
それでも。いつだったか書いた、逃避は逃避。そこが本当はどうなのか、と向き合っていく事が、自分を掘っていく事、見つめる事、内側へ入っていく事となる。
私達人間て、本当に機能を使いこなしていないの。自分の意思で操縦できるこの肉体を、カラダがこうだから、アタマがどうだからと、意志/意思を小さくしてしまっている。
ここは本来「共に在る」んだよね。優劣でもなくお互いさまに。そのカラダ・アタマは他人と比較するものでもなくてね。だって他人のカラダは操縦できないからね、通常は。
だから、「自分を正しく見る」という事が必要になってくるよね、どうしたって。でも自分で自分を客観するのってかなり難しいのね、これが。
自分は何ができる/できない
きちんと見つめる事ができないと、世の成功法則や輝かしい手法は「自分に合っていない事」も気づけないままでひたすらやり続ける、という事が出てきてしまうよね。成功する為にやっているのに、幸せになるためなのに。
客観視しているようで、ガッツリ遠慮(謙遜)目線だったり、大して出来なくても過信していたり。偏るんだよね、自分の見たい自分しか見ていないから。
世間一般的に。と言うのはあくまでも「一般的に」な見方なんだけど、自分を偏りなく見るならば、アレができない事実、コレができる私、をきちんと把握する事。これは自分にとって、「認めたくない事を見る」事にもなるからキツい人もいるんだよね。
眼球、しっかり回したことある?目の裏側を見るくらいのつもりで上、下、斜め、どこの箇所からもしっかり力を入れて裏側を見ようとするの。結構痛いのよ、動かす場所によって(*^^*)
痛みがあれば、目の動きが少なかったという事だね。凝り固まっていたという状態。人はこの目さえも使えていないし労わってもいない。
「自分は何でもできる」という可能性に生きる事も素晴らしいことだけど、本当に成長拡大する上で、必要なフラグは必ず拾う事になるからね。
善し悪しじゃなく、優劣でもなく。自分の「出来る/出来ない」をしっかりと把握する事から始まる。人それぞれに今いる段階が違うから、それを定めないと小手先マネてもズレちゃうからね(*^^*)
意識は”大きな流れ”に置いている。目の前の小さな所をすっ飛ばす。もちろん私は始めから「流れ」に全託出来ていた訳じゃない。目の前にフォーカスしたり、高く飛んだりしながら、自分の意志も使ってこの状態になっています。