その場で明るくなれる
1/5 少ーし分かったーーー
1/6 また少し分かってくるーー
それぞれその時に掴んだ”感覚”についてメモしている。その結果に言えるのは「思い込み」がきちんとあった事。
その思い込みが見えない所に”前提”としてあるから、「そこから」物事を無意識に考え始めている、という事がよーく分かった。
・・・ ・・・ ・・・
いつ頃からかな、そんなに長い期間じゃないけども、眠いな・・・と思っても生理絡みなどよほどの睡魔でない限り、以前のように眠るという事はなく、「久しぶりに夕寝した」という感覚が増えた。
かと言って、夜にしっかり眠っているかと言えば、長い時間でないのに朝方に目が覚めるなど眠りも浅いことが分かっていた。とにかく「よく眠れる人」というのが私だったのだけど、今はそうでない事もしばしば。
昨朝は、前日に寝たのも遅かったのに、数時間後に目覚めてしまい、その後に眠ってはいるものの、まぁ寝起きの寝不足感満載な出だしだった(笑)漢方は飲んでいるけども、時にホルモンバランスを感じるような事は、弱いけども起きている。
あまり寝た感じのしなかった月曜の朝、少しの頭の重さもあったのだけど、ふと、
”いやぁ、それでも(大丈夫)―――”
大丈夫という確信もその気持ちも、確かにあったわけじゃなく、そんな雰囲気が自分の中に顕れたので、明るい気持ちが開いて行った。だから後で、”――”の言葉は付いている。
重さの中にハマらない。そんな経過でも”大丈夫”。内側に暗い状態があっても、外からの明るさが入る事で内側は割れることも知った※。
どうしてコトの流れを書きたいかというと。私という本人の中では大きな「感動」をしているから。その内側の静かな興奮を、言葉の意味からの「理解」でないその事を、どうしても書きたくなるから。
これは、エピソードを変え、何度経験しても本当に感動する事なのだ。
・・・
その事ができる、「やる」という事が億劫でなく、”動けている”と何度も感じた。時間も労力も必要な大きなことは、そう簡単にやろうとは思えないけど、日々の日常の中の小さな事、でも毎日の動作で「ふぅ~」という少し重い気持ちで入っていたものが、”その気”が湧く前に動いている事が多くなっている事に気づいていた。
こんな小さな事でも、「できる」と嬉しいのだ。
何かがやりづらい、できない!
そんな日常から、”できた!”という事への転換は、子どものように本当に嬉しい。
どんな自分が居ても構わないけど、「どんな事に喜びを感じる自分があるか」には、しっかり気づいておきたい―――奥深さの中にある喜びだ。
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私は10日前にLINEメモしている。
そう。
ちょっとした、とっても小さな”ウダウダ”がパッと消えるようになったのを感じている。ウダウダという名の感情、うごめきがモゾモゾしなくて良い…それは動きを止めるから重くするから。
その中にハマらず無視してそのまま動ける感じ。こんな小さな変化が嬉しい。余計なエネルギーを使わなくて済むようだ…、「不快」という重さを感じずにいられる喜びだ。
重い気持ちその”感じ”から動き出すことは、日々の中であると思う。私にはあった事がよく分かる。それでも「やって」きたわけだけど、それがその動く前の重い感じが、自分に掴まれる前に”動き”の中へ入れる状態がボチボチ出来ていて、その事を書いている。
同じく「動いて」いるのだから何の問題もない…のだけど、この時の”重い気持ち”がなかった時を知ると、その軽さを初めて実感することになる。その事実から拾えた部分に毎度感動し、「明るく」なるという軽さが分かる。
まず一つはそこに感動があったのだけど、思い込みが破壊される事への体験はやはり嬉しかった。
私は長いこと、「私の思う方向」から物事を捉えていたと痛感した。それは私自身のスタンスであって、意識しているものでもあったし、そうしたい事でもあったと思う。
いつも最終的には、”どちらでも良い”と自分を解放するのだけど、だから平気なんだけど。今までにあった”気持ち”、その重い気配を動作が流してしまえる事の軽さを知ると、自分への心理的負担感がまったく違うと思うことができた。これが「やらないと分からない」事で、「頭で理解している事と、実際との大きな違い」であるもの。
”平気”と思っていられるけど、要らぬ負担を持っていると言うことも出来る。
ただ年末に自分が発した言葉によって、それが自分へのコマンドにもなり、自然と意識されるようになる状態、”洗脳”が起きてくれた。自分が意識付けしたい方向にすんなり入れるなら、こんなにラッキーなことはない。
それは今までの自分の内側の整理、解しを行って来ているから、という事の否定はできなくて、丁度よいタイミングでしっかりと「それを行う」事がなされていると、私は捉える。
タイミングに関しては、私はきっとこの先も「常に合っている(当然)」と言うと思う。自分でどうこうしなくても、きちんと何かを目にする、”気”になることは、脳の状態の結果だから。
それが「そうは思わない」のは”私”側なので、この”私”が適正な場所で仕事をすれば、きちんとモノコトは”合う”だろうと思っている。
1/5にメモしている事は今までもよく触れてきた「向き」の話なのだけど、再びここで向きのことは無視できない事として、私の中に押し出されてくる。
それは何かはっきりと一言で「こうだ」という様な閃きみたいなものでなく、長い今までの旅をぼんやり振り返ったら、「そういう事が見えてくるな…」という様な捉え方だった―――
※も含めてまた明日。