ふと考える夜⑥
大変な時こそ色々考える。
これは一種の現実逃避なのかもしれない。
自分が出来ることを考える
自分の満足いく結果にする方法を選択する
と誰かが言った。
結局それは自己満足じゃないのかな。
誰かに何かをする時の自己満足ほど
傲慢で無鉄砲で一方的なものはない
相手の歴史や生き様、背景に触れて
思いを汲み取り、一緒に考える
『思いやり』
こんな簡単な一言に言い表してはいけない位に
配慮のエッセンスが加わるだけで
それは自己満足じゃなくなる...そんな気がする
それも結果、自己満足の範疇じゃないの?
そうなるのであれば更に一緒に考える
「相手がどう思うのか」
それを基にどう行動するのか
それが達成すべきゴールなんだと思う。
○ 共同生活援助の形
グループホーム(共同生活援助)の生活形態は非常に単純。しかし考えれば考えるほど異様な空間でしかない。家族でない「障がい」「高齢者」のレッテルを貼られた複数名が一緒に暮らす空間。
そこは施設と括られて、ゴミを捨てるのも産業ゴミと分類される。
社会に溶け込み生きていくことを強いられて、地域から虐げられたり無下にされる対象として揶揄される。
家族からはもう無理だ。出来ないと放棄されて、自身が高齢ともなれば、会いに来ることさえない。高齢でなくとも、忙しいからと会えない理由を作り、遠ざけられてしまう。
日中作業所や介護職員も表面的な理解しかせず、担当職員にも軽くあしらわれる。各々に歴史や生き様、大事にしてきたものがあるはずなのに、今しか切り取られない。見えてこない。将来像も描けない。
自分にどんな選択肢があるのか、まず知らない。そもそも情報を情報として認知出来てない。知ることに触れていない。敷かれたレールの上をただただシュシュポポなのかダラダラなのか進んでいるだけ。
...こんなのがグループホームと呼んでしまっていいのだろうか
目指すべきは『第二の家』『HOME』『居場所』なのではないか。
居場所とは、空間や場所だけでなく、役割や配置、繋がりも含まれてくる。
別にここじゃないといけない訳ではない
必要な時に利用でき、いつでも羽ばたける
好きな人と暮らすことも出来る
趣味の共有も出来る
時には将来を語り合ったり、支えてあったり
そんな居場所作りが僕たちの目指す所なんじゃないかなと思う今日この頃
いかんせん場所、建物がないと始まらない
大家さんがいる方がよいのか、持ち土地持ち家で運営した方がよいのか問題が浮上する
大家さん→利用者さんのオーナー制を考えたのが第一回目だったな
オーナーの出資の仕方って色々あって
共同出資なんて競馬の馬みたいに複数名で
出資額に応じて家賃収益の割合が変わるなんてどうかな?
手軽に福祉に参加出来る
誰かを救う誰かのためになることに誰しも手を貸せるチャンスにならない?
別に住む場所が家でなくとも商業と一緒の場合もあるよね?
店舗がくっついてる
スーパーとかコンビニ。クリーニング屋、病院、マッサージ屋に銭湯。
企業として福祉参入するのに場所や部屋を貸すなんてことも含まれたりしないかな
働く人の寮になったりして
眠た
今日はここまで。おやすみなさい。