都会のネズミ田舎のネズミ
自転車通勤生活も定着してきました。暑い日が続き、日中は汗ばむくらいに夏かと思うくらいの日差しカンカン照りとなってますが、朝方は涼しく快適なサイクリングとなっております。
今日は道中で、ハツカネズミを発見しました。家に住み着く家ねずみの代表的なもので「ハツカネズミ、クマネズミ、ドブネズミ」の3種類がいるのですが、ハツカネズミはもっとも体が小さく、白く、好奇心がもっとも強い性格。家財道具や配線、配管に被害を与えることもあります。ハツカネズミの「20日」って20日間しか生きれないからのハツカではありません。家ねずみの場合は1年から2年。長くて2年半。野ねずみの場合には、4ヶ月くらいしか生きれないものの、「20日」は余裕で越えられる。何が「20日」なのかというと妊娠から出産までが「20日」なのだと。まぁ恐ろしい繁殖力。
ねずみというとイソップ物語の「都会のネズミと田舎のネズミ」を思い出す。
田舎に住んでいる一匹のネズミが、御馳走を振る舞おうと仲の良い町のネズミを招待した。二匹は土くれだった畑へ行き、麦やトウモロコシ、大根を引っこ抜いて食べていたのだが、町のネズミがこう言った。「君はこんな退屈な生活によく暮らせるな。ねえ、僕のところへ来ない?そうすれば珍しいものが腹一杯食べられるよ。」田舎のネズミは二つ返事で承知すると連れだって町へと向かった。ある建物に着くと町のネズミは、パンやチーズ、肉といった見た事も無い御馳走を田舎のネズミに見せた。めくるめく御馳走を前に田舎のネズミはお礼を述べ、食べようとした。その時、何者かが扉を開けてきた。二匹は潜りこめる狭い穴をみつけると一目散に逃げ込んだ。そして、彼らが食事を再開しようとすると、また別の誰かが入って来た。すると田舎のネズミは、急いで帰り支度を整えてこう言った。「こんなに素晴らしい御馳走を用意してもらってすまないんだけど、こんなに危険が多いのは御免だね。僕には土くれだった畑で食べている方が性に合ってる。あそこならば、安全で怖いこともなく暮らせるからね。」
幸せは人それぞれで、満足できる形や安心できる場所は異なる。というのが教訓らしい。
日本でも広まり「京と田舎の鼠の事」として広く知れ渡ったくらいのお話。
第十八 京と田舍の鼠の事
ある時、都のねずみ、かた田舍にくだり侍りける。ゐなかの鼠共、これをいつぎかしづくこと限りなし。これに依て田舍の鼠をめしぐして上洛す。然も其住所は、都のたうとき者の藏にてなん有ける。故に食物足て乏き事なし。
都の鼠申けるは、「上方にはかくなんいみじき事のみおはすれば、いやしきゐなかに住給ひて、何にかはし給ふべき」などゝ語慰む處に、家主藏に用の事有て、俄に戸を開く。京の鼠は本より案内なれば穴ににげ入ぬ。田舍鼠は無案内なれば、あはてさはげどもかくれ所もなく、辛うじて命計たすかりける。
其後田舍の鼠參會して、此よし語るやう、「御邊は都にいみじき事のみ有とのたまへども、たゞ今の氣遣(きづかひ)、一夜白髮と云傳るごとく也、田舍にては事たらはぬ事も侍れ共、かゝる氣遣ひなし」となん申ける。
其如くいやしきものは、かみつかたの人に友なふ事なかれ。もししゐて是を友なふ時は、いたづがはしき事のみにあらず、たちまちわざはひ出來べし。貧をたのしむ客は、萬事還(かへ)つて滿足すと見えたり。かるがゆへにことわざに云、貧樂とこそいひ侍りき。
(出典:「伊曾保物語 中巻 第十八 京といなかのねずみの事」)
《田舎のネズミが都会のネズミから招待されて都会に行くことにする。都会にはご馳走が一杯で食べ放題だ、というのを聞いたからだ。
ところが、のんびりした田舎と違って都会はせわしない。人間が食べるご馳走はたっぷりあるのだが、落ち着いて食べるヒマなどありはしない。身の危険もいっぱいだ。実際、命からがら逃げのびた始末だ。
田舎のネズミは悟る。もうこりごりだ、自分には都会は合わないのだ、と。田舎はご馳走は豊富ではなくても安心して暮らせるからね、と都会のネズミに告げて田舎に戻ることにした。「貧乏は気楽」とことわざにもあるとおりじゃないか。》
幸せの満足って人に決められるものではない。「身の丈」って言葉もあるけれど、外から見て判断出来うるものではない。
幸せの価値は人それぞれ。田舎のネズミが「田舎に帰る」という選択肢を選べたのも都会を知ったからこその選択である。きっと都会に誘われて、行くまでの間はちょっとの間ではあるが夢見たのではなかろうか。自分の想像と違った、やっぱり自分には田舎が合っている。そう思えたのは都会に触れたからこそである。目の前にあることが当り前ではない。違うものと比べて、落ち着く等感情が揺らいだ時、その当り前の幸せに気付かされる。別に都会のネズミが可哀相というお話でもない。田舎のネズミをご招待したいほど、自慢したくなるほど気に入っている暮らしだと思っているに違いない。ただ、都会のネズミと田舎のネズミの価値観が合わなかった。ただただそれだけの話。価値観の相違は動き方だけではなく、生活の仕方も変わってくる。環境、食べるもの、暮らす場所。全てにおいてその人の持つ『価値観』っていうのは影響してくる。
ではその『価値観』を築くのは何なのか。その人の生き方や風土の風習、出会った人々、読んだ書物、見てきたTV。色々あるが「経験」に尽きると思う。経験こそ価値観の創造するもの。その中で何を選択するのかで人生が変わってくる。
都会のネズミと田舎のネズミ。その後を追っていった時に、さぁ田舎のネズミはどんな経験を、どんな選択肢を選択していくのだろう。ふと。「あぁ。あのパン、チーズ、肉美味しかったなぁ。」と思い出すことがあるのかな。また都会にいくかもしれない。それか都会や田舎の中間地点で自分にベストマッチな町を見つけるのかもしれない。そんな想像も面白い。
よく『田舎のネズミと町のネズミ』という表記も見るのだが「町」「街」ってどう違うのだろう。
街:商店やビルが立ち並んでいるにぎやかな道筋
町は
①人々が住む住宅などが多く集まっている区域。
②地方公共団体の一つ。市区町村のうちの町。
③市区町村(地方公共団体)を構成する小区画。
④商店やビルが立ち並んでいるにぎやかな道筋 ←え!!!!!
つまりは
「商店やビルが立ち並んでいるにぎやかな道筋:街」含むそれ以外は「町」
「町」は「街」よりも広い範囲を指す言葉。
町ってもっと広い概念な気もする。
人が集うコミュニティ。もうそこは『町』なのではないかな。ヒトは一人では生きていけない。社会に守られ、家族がいて、ご近所がいる。自身が売主となる場合もあるし、買手になる場合もある。病院もあったり、駐在さんがいたり。「私はひとりぼっちだよ」って方もいるかもしれない。そんなヒトもお母さんがいてお父さんがいて、ご先祖がいて。そう考えると、今生きてること、それも当たり前ではないような気もしてくる。自分がヒトであること。ネズミでないこと。だからこそ、色々考える。考えられる。全ての事柄に感謝。そんな価値観であれば、物事の見え方も変わってくるだろうに。
さぁどうする?何する?