青年よ多角的であれ

もう何度も、同じことを言っているようで嫌になってくるのですが、
信念を持つことと、盲目になることは、紙一重でいて質が大きく違うということです。尖ってることと、文句垂れてることが紙一重で違うのと同じような感覚で。
せっかくなので、少し真面目な話をしようかな。


僕がやめてしまえばいいだけの話ですが、最近Twitterにやはり疑問を感じることが多く。
宇野常寛さんが「遅いインターネット」みたいなことを言ってると思うのですが、それは人間単位にも言えることだと思っていて。(そもそもが人間に向けて言っていることでもあるんだけど)
なんでもかんでもすぐに口にできてしまうからこそ、浅い思考になってしまったり、盲目な自分を露呈してしまうことになるのです。感情先行型というかね。
インスタはその真逆で、「いいね」が欲しいために考えすぎた挙句、虚像的な自分に陥って行ってしまうのです。その虚像に実像としての自分がついていけるのかは、その人次第って感じですけど。

表現者はそのあたりもっと考えた方がいいと思うんだけど。
僕は言葉を扱う使命を持つものとして、そこらへんはものすごく考えているつもりだし、普段ライブで使っている「葛藤」という言葉には、言葉や事象へのへの深い眼差しという意味も含まれていたり。

それでも、僕は社会への「深い眼差し」を失いたくないので、やっぱりネットワークの中には存在しながら、動向を見ていきたいと思う。

もっと思考先行型の日常を送れる人が増えて行って欲しいなあと。
それが僕が常々言っている「希望」のひとつです。
音楽には、そういう時代に向かわせる力はあると思うな。


音楽家でも、そういう日常や時代に対して自分の感情だけでぶつかっていくような人ではなくて、ちゃんと多角的な目線を「持とうと努めてる」人に出会えないかなあ。それが真のオルタナティブなんじゃないの?ねえ。
結局のところ音楽のやり方や表現は無限なので、隣の芝生は隣の芝生だし、どれもが肯定されるべきですけども。

ポストフェイクという曲の歌詞
「襟を正せ 目を凝らせ 耳すませ」

そういうことです。青年よ多角的であれ。

この文章が気に入っていただければ、ぜひ。 創作活動(執筆・音楽)のために、使わせていただき、それをまたみなさまにお披露目できればと思っています。