何度目かの逡巡

音楽は果たして必要なのか。
どういう形が最善なのか。
僕自身が1ヶ月悩み続けていたことだ。
そんなくらいならやるなよ。という言葉が聞こえてきそうだったので、誰にも言えずにいた。それなら孤独にやってやるよ、という覚悟も共に持って。

音楽で何を伝えたかったんだっけかな。
よくわからなくなったまま、世間の渦に飲み込まれていった、真冬の2月だった。
こういう煩悶は社会とか競争とか成果とか、そういう世界にはやっぱり無用なのかな。

そのまま3月に突入した。
このまま見捨てられて死んでいくのか?
いや、そもそも俺が悪いのか。
そんな思いを抱えていた。

先日、僕は武道館に向かった。
音楽ではない、深夜ラジオのイベントだった。しかも、音楽でも難しいであろうあのキャパをお笑い芸人のオードリーが満杯に埋めてみせたのだ。
ラジオの10周年を記念したイベントに12000人。すごいことだ。

ラジオは、生き辛い、苦しい、そういう一人一人のためのものでもあると思っている。
その一人一人、それぞれラジオに何かを与えられた人が集まって12000人。
何か言葉にできないエネルギーが充満しているのを感じた。

そして繰り広げられるいつものトーク、いつもの笑い。一人一人のものが、みんなのものになっている。普段は片隅にいるような人々も、(僕もそう)声を出して、自分が主役だと言わんばかり笑っている。

あぁ、そうか。
俺がやりたいのはこれだったわ。
笑いながら、込み上げてくる思いがあった。
同時に、悔しいと思った。
俺もやらなきゃいけない、そう思った。

でも今、これだけの思いを持っていて、どこまでできるかは正直わからない。
ごくシンプルに、将来は誰にもわからないからだ。もちろん強く思ってはいるし将来を信じているけれど。

加えて、これまでの思いに対する行動の鈍さには、もう呆れている人ばかりだろう。
でも、僕は必ず達成できると信じている。
それが遠かったとしても、必ず音楽でたどり着けると信じている。

そのビジョンが今、自分1人にしか見えていないなら、1人きりで戦う覚悟だ。
でもなるべくなら、愛される存在でなければならないし、周囲を愛せる人でありたい。

そう思って、3月を迎えている。
また何度でも、逡巡しながら、
何度でも立ち上がればいいと思っている。
それが誰かにとって希望になるのなら、
分かり合えない人がいても、それでいいと思っている。

この文章が気に入っていただければ、ぜひ。 創作活動(執筆・音楽)のために、使わせていただき、それをまたみなさまにお披露目できればと思っています。