電車にて、蘇る想像力

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3限が休講で今日はゆったりと過ごした。
いざ大学へ。
電車に乗って座ると、隣のお姉さんがうとうと。
体の芯をえらく失うタイプのお姉さんで、かなりの体重感で寄りかかってきた。電車の中で溜まっていたタスクをこなしたかった僕は内心少し困惑した。
話は転じるが、自分も電車で寝るとひどく体の芯を失いもたれかかるタイプだ。サラリーマンにぶつかると大体強めの肘鉄を食らう。僕はそれが嫌で嫌でしょうがなくて、なんとかしてもたれない寝方にたどり着いたほどだ。

だから基本的に僕はもたれられてもやり返さないことにしている。
自分がやられて嫌なことは相手にやらない。小学校教育の鉄則。

最寄りから、乗り換え駅まで35分程度。だいぶ長い。
やはり、もたれてくるお姉さんの重みが気になって仕事に集中できず。
パソコンの画面に髪の毛が入り込んでさながらホラーである。

さすがにこれは、と僕も思い、少しだけはねかえそうかと思った。
ここで思考が始まる。

僕は最寄りからずっとそのお姉さんが隣にいて、不快中数も上がって来ている。だから、僕の論理としては、跳ね返したって良い訳だ。

でもどうだ。その事情を何も知らず、途中から乗って来た人は、それを見てどう思うだろうか。感じ方は様々だろうが、僕に非があると思う人もいるかもしれない。

人間は1秒1秒の連続の中を生きている。
でもその「積み重ね」は赤の他人にとっては関係のないことで、社会においては「一瞬」がモノを言う。

ニュースの(無)作為的な編集映像を見て、ああだこうだ言う。
それだってそうでしょう?
じゃあ、国会丸ごと全部流せば良いかって?
きちんと読み取れるリテラシーがないじゃない。

正義とか、正しさとか本当はどこにもないのに(当事者にしかわからないと言う意味で)、何か「表層的常識」を他人によって規定されているような社会である。

僕は電車の中で知らない人の体重と、知らない人の目を感じながらそう感じた。

そろそろ曲が書けそうである。

この文章が気に入っていただければ、ぜひ。 創作活動(執筆・音楽)のために、使わせていただき、それをまたみなさまにお披露目できればと思っています。