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世界は繋がっている:日本の農業の生産性に貢献したスリランカの溜池灌漑とジェフリー・バワ氏を想う

経済学の巨匠ともいえる宇沢氏の本を読んでいて、ふとしたところで「スリランカ」に出逢った。これは、『世界』という1994年12月号に岩波書店により発行された『空海が学んだスリランカの溜池灌漑』というタイトルだった。

私にとってスリランカといえば、アーユルヴェーダの聖地と熱帯建築家ジェフリーバワ氏の存在。そして、最近出会ったスリランカの友人達の名前の長さ。(これは、父親の名前をそのまま受け継ぐスリランカの文化でもあり、友人だけではなく、皆名前がとにかく長く、大学院の奨学金申請の項目で「名前の欄は○○字以内でご記入下さい」とエラー表示が出てしまうくらい。エラーなのは、世界の名前事情を知らない項目を作った人間側なのでは(失礼w)とも思った・・・という話)

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あまりにも、この本のまとめの中に入れるのはもったいないと思ったので、建築や農業という観点から、改めてこの項目を考察したい。そして何よりも、この国の歴史を知り、偉大な建築家をうむ背景、その人の思想や社会を学ぶことで、少しだけ、日本人として今の時代を生きる自分の中で、何かが繋がる気がするのだ。

スリランカの溜池灌漑

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日本の農業は、その生産性の高さにおいて、世界でもっともすぐれたものの一つであった。このことは少なくとも、1950年代から60年代にかけて妥当していた。日本の農業を支えてきたのは、長い年月をかけて全国的につくられてきた灌漑システムと、そのすぐれたコモンズの原則にしたがった管理方法であった。この日本の灌漑システムの形成に重要な役割を果たしたのが空海であった。空海は留学僧として中国にいたときに、当時世界でもっともすぐれた灌漑システムをもっていたスリランカの技術と制度とを学んだ

・灌漑システム
・コモンズの原則にしたがった管理方法

スリランカでは、紀元前四世紀頃、最初の王国が築かれたが、それは高度に発達した文明をもっていた。古代王国のあと、シンハラ王国が栄えたが、紀元二世紀から三世紀にかけて、土木と建築とについて世界で比類のない水準を保っていた。四世紀の終わり頃から五世紀の初めにかけて、ある一人の中国の仏教僧がスリランカに仏教を学ぶとともに水利技術を学び、同時にすぐれた管理制度を身につけて帰ってきた。仏教僧の名は法顕といい、インド、スリランカに15年間滞在したが、帰路遭難してインドネシアに漂着した。それから何年も経ってから中国に帰ることができた。空海が学んだスリランカの水利技術は、法顕が持ち帰ったものだったのである。

(A Record of Buddhistic Kingdoms: Travels (AD 399-414) of Fa-Hein in India and Ceylon in Search of the Buddhist Book of Discipline, Munshiram Manoharlal, 1991)

空海は、日本の土木の歴史に特筆すべき事業とされている。空海はその後、四国をはじめとして全国を廻って、このスリランカの灌漑技術、とくに溜池灌漑にかんする工学的知識、その社会的管理にかんする制度を広めた。これは、現在的用語法を用いれば、農業に関わる社会的共通資本の建設、その管理について持続可能な生産をおこなうためのコモンズの考え方にもとづいたものであった。

1994年:スリランカの学術会議の創立50周年式典
独立してから46年経っているが、イギリスの植民地時代の傷跡は深く、スリランカ経済、社会は以前として大きな困難を抱えている。

ペチャゴーダ博士『スリランカにおける農業と森林にかんする諸問題』というすばらしい論文。ペチャゴーダ博士は冒頭で、「2000年以上にわたってすぐれた農業を営みつづけてきたスリランカで、何故いま食糧に苦しみ、貧困に悩まなければならないのか。まったく理解できない。」と述べている。

スリランカの歴史は2500年以上にさかのぼる。紀元前4世紀、インドの東南部からの移民がヴィジャヤ王子に率いられ、スリランカにやってきた。かれらはすぐれた水利文明の技術をもち、高度に発達した社会をもっていた。かれらはスリランカの北東部を流れるマルワッツ川のほとりに王国を築いた。王国の首都アヌラーダプラ(Anuradhapura)は、古代都市のなかでもっとも美しいものの一つといわれ、1500年にわたって栄えた。アヌラーダプラは商業の中心地となり、やがて仏教がこの地に伝来し、スリランカ全国に広まっていった。(1982年、ユネスコの世界遺産に登録された)

この古代王国が、いつ、どのようにして崩壊したのか、いまでも謎につつまれたままである。やがてシンハラ民族が渡来し、シンハラ王国を築いていった。シンハラ王国も、古代王国と同じように、高度に発達した水利文明をもっていた。とくに灌漑施設は極めて高度な技術をもってつくられていた。いくつもの巨大な貯水池、さまざまな規模をもった無数の溜池がたくみに設計され、北東モンスーン風によってもたらされた大量の雨水を効率的に保全して、網の目のようにはりめぐらされた灌漑水路を通じて水田に供給されていた。

スリランカの水利システムは、水田や他の作物のための灌漑用水を供給していただけでなく、地下水を保全し、森林をゆたかに維持し、人々の家の庭をも緑ゆたかなものにするために大きな役割を果たしていた。人間の生活空間とエコロジカルな環境とがみごとに調和して、農地と森林とが何世紀にもわたって大きな人口を養い、すべての生物が持続的な形で共存することを可能にしていった。その基礎を支えていたのがスリランカの水利施設だった。

しかしスリランカはまた絶えず、南インドの諸王国からの侵略に悩まされつづけた。やがてスリランカのもっていた人間と自然とのすぐれた調和、共生は、破壊され始めていった。その最初の微候が王宮と仏寺の破壊であったが、やがて、ダム、溜池などの水利施設にも破壊が及んでいった。灌漑、水利施設が破壊され、人間と自然の調和と共生が失われていくとともに、マラリヤの脅威が低地、高地を限らず、スリランカ全土を襲い始めた。マラリヤから逃れて、人々は乾燥地から湿地に大移動をしていった。湿地では森林がゆたかに茂り、厚い樹冠が雨水の流れをうまく保全して、地下水を絶えず補給して、河川の豊富な水の流れを維持していた。農村の生活に、森林の役割は不可欠である。燃料の材料、家を建てるための材木を供給するだけでなく、薬木、薬草もまた森林から得られたし、さまざまな手工芸の材料も森林から取ってきた。

南インドの諸王国からの侵略
ポルトガルの侵略
オランダの侵略
イギリスの植民地化

スリランカの歴史で1505年におこったポルトガルの侵略は、一つの大きな転回点であった。現在のコロンボを中心として西南の広い土地を奪い取られてしまった。カンディ王がオランダと同盟を結んでポルトガルを追放することに成功したが、オランダはポルトガルよりもっと悪質だった。しかしスリランカの破壊を決定的にしたのは、18世紀の終わりに始まったイギリスによる侵略と植民地化であった。カンディ王の最後の闘いも空しく敗れ去り、1815年スリランカ全島がイギリスの支配下に置かれることになった。

イギリスによる植民地化は、長い歴史を経て形成された文化、社会を徹底的に壊し、多くの人々を殺戮し、美しい自然を破壊しさった。イギリスは、スリランカ全島にわたって森林を切り払い、農地を潰して、茶とゴムのプランテーションに変えていった。生物種の多様性を維持し、すべての生物を守っていた、人間と自然の共生は完全に失われてしまった。土壌はつよい太陽にさらされ、南東風のモンスーンのはげしい雨によって流出していった。イギリス人によるプランテーションの経営は、スリランカ人の奴隷的労働と自然の徹底的な破壊とによって巨大な利益をイギリス本国にもたらした。

20世紀初頭にはスリランカ全島のうち、70%が森林によって占められていたが、1956年には、わずか40%までに減ってしまった。独立してからも森林の破壊はつづき、現在森林は全島の24%を占めるまでにすぎなくなってしまった。

イギリスの植民地政策によって、スリランカの農業は極端な形でモノカルチャー化され、国際市場価格の変動によって、スリランカ経済自体が大きく影響されることになった。食糧の自給率は極端に低く、生活水準は高くない。

植民地時代のプランテーションの影響が残り、低地の標高200m程度まではココナッツ、標高500mまではゴム、それ以上の標高では紅茶の生産が盛ん。(もともとスリランカではコーヒー栽培が主流だった)

現在植林がスリランカ政府にとってもっとも優先順位が高い政策課題となっている。年間12000ヘクタールの植林計画が立てられ、実行に移されているが、森林の伐採は乾燥地についても湿地についても、いぜんとして高いペースでおこなわれている。

スリランカには、原生林や、自然公園がゆたかな森林と数多い野生動物をもって国際的にも知られている。現在、スリランカ政府が積極的に推し進めている農業の多様化と森林の育成とが、その効果をもとらすようになるのはこれから長い年月を必要とするだろう。しかし、かつて世界最高の技術水準を誇り、自治主義の原則にしたがって管理されていたスリランカの水利文明がふたたびその花を開くときがくるのは確実だといってよいであろう。

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スリランカの熱帯建築家ジェフリー・バワ氏(1919年7月23日 – 2003年5月27​日)は世界中を放浪し、法律家から38歳で建築家の道へ進み、国会議事堂やカフェ、アジアンリゾートを建築。彼のそして彼に多くの影響をうけたアマンリゾーツのエイドリアン・ゼッカ氏やアマンリゾーツ建築家ケリー・ヒル氏。ちなみに、ケリー・ヒル氏は大の日本びいきで、生涯約80回程日本を訪れていたのだとか。シンガポールを拠点に、バリ島やタイ、スリランカなどの熱帯気候の国々を中心として、数年前に初めてのシティホテルとしてアマン東京の建築にも関わった。

ジェフリー・バワ氏の建築、アヌラーダプラ(Anuradhapura)、ヘリタンスカンダラマ(Heritance Kandalama)、パラダイス・ロード・ザ・ギャラリー・カフェ、ライトハウスホテル&スパ スリランカ・・・この地には熱帯の建築的魅力がたくさんある。そしてその魅力は、歴史や文化を知ることにより、より広く、深くなるものなのだと、改めて、一見全く関係のない本から学ぶこととなった。

ちなみに、この私のスリランカとの出会いと、ジェフリー・バワ氏への想いをスリランカの友人達に伝えると、「有名なの?知らない」と一言。きっと、世界はそんなもの。他の文化や国の人々と出会って、初めて自国を知る。そんなことも多いのだ。

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