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◎『誰が安倍晋三を殺したか』(第2章 ドメスティック・ポリス③)
サミット警備陣は日本の法律を無視
こうした日本警察の対テロ能力に危機感を抱いたのは、当の日本警察ではなく、主要先進国の警備当局だった。2008年の洞爺湖サミットでは、各国は日本の法律を無視して自前の武装警備員を配置して、自国の首脳を守ろうとしたのだ。
小泉純一郎氏のあとを受けた安倍晋三氏が1年間の政権担当ののち、体調不良で退陣すると、父親も首相を務めた福田康夫氏が政権の座についた。その直後、私は旧知の英国大使館の参事官から日本警察への不満をぶちまけられた。この人物は名乗りこそしないが、ジェームス・ボンドや007で知られる英国外務省秘密情報部、通称MI−6の所属である。英国のスパイは言った。
「日本の警察にはテロ対策の常識もないのですか。この間、来年の洞爺湖サミットの会場に案内されたのですが、あんな場所ではテロをやってくれと言っているようなものだ。日本の警察は『会場のホテルウインザーは背後が洞爺湖で眺望も良く、外部から侵入する道路は一本しかないからデモ隊を防ぎやすい』と会場選定の理由を述べました。しかし、われわれG7各国の警備陣からすれば、デモ隊などどうでもよいのです。問題はテロリストだ。内部になりすましで入り込んでいたり、従業員の家族を人質にとって脅迫し、犯行を手伝わせたりするのが恐ろしい。内部でテロが起きて首脳を脱出させようにも一本しかない道路は別動隊に押さえられるから危険だ。犯行が夜だったら、もっと条件が悪くなる。しかもサミットが開かれる7月上旬は洞爺湖に霧が出る可能性がある。雨の夜でも同じだ。そんなときヘリは使えない、モーターボートも危険だ」
各国の警備陣はその点を問いただしたが、日本の警察当局は言を左右して譲らなかったという。結局、G7各国は日本の法律を無視して武装した警備要員を密かに配備、自前で首脳を守ることにした。
世界のどの国に行く場合も武装した警備要員シークレットサービスを同行しているのはアメリカの大統領、副大統領、国務長官、国防長官などに限られる。それを拒めば、行かないと言い放てるのがアメリカの強みだ。アメリカの要人が来なければ外交が成り立たないから、それがまかり通っている。
しかし、英国の首相でも到着した羽田空港で専用機の中に警備要員の武器を置いている。1981年に初来日したパレスチナ解放機構PLOのヤセル・アラファト議長の警備要員は、拳銃やAK47カラシニコフ突撃銃ばかりか、RPG-7対戦車擲弾まで合計200挺を持ちこんでいた。
専用機の中でPLO側の武装解除に立ち会った知人から聞かされたことだが、このときはアラファトの顔を立てて、本人愛用の拳銃一挺だけを持ちこむのを許したという。アラファトはズボンの後ろ側に拳銃を差し込んでいた。洞爺湖サミットでは、こうした慣例が破られ、日本国の法律は蹂躙された。日本警察のテロ担当者が悔しそうに私に囁いた。
「連中が日本の法律を無視して武器を持ちこんだのは、途中で分かりましたが、まさか銃刀法違反で逮捕するわけにもいかない。我々としては見て見ぬ振りをするしかなかったのです」
MI-6から「暇じゃねえよ」
この英国のスパイからは、国際水準に達していない日本の治安当局の在り方について不信感をぶちまけられたこともある。
2010年の1月から2月にかけて、日本の情報組織の頂点に立つ植松信一内閣情報官が英国を訪問し、MI-6の長官との会談が計画された。ところが再三にわたって英国側が「アジェンダ(協議内容)はなにか」と問いかけても、日本側からの具体的な回答はなかった。
植松情報官の責任ではないが、日本側の事務方としては就任挨拶くらいのつもりだった。しかし、それでは国際社会は通らない。英国側は丁重な言い回しで、訪問を受け入れる日程的な余裕がないと伝えてきたが、言外に、「そんなに暇じゃないんだよ、何を考えているんだ」という不信感と嘲りが感じられた。
トランプ狙撃とカウンター・スナイパー
この章を書き終える段階で、大統領選挙戦を展開中のトランプ氏が銃撃される事件が発生した。
2024年7月13日、ペンシルベニア州バトラーで演説中のアメリカの前大統領ドナルド・トランプ氏がAR15ライフルで銃撃され、右耳たぶ上部を負傷、聴衆1人が死亡、2人が重症を負った。犯人のトーマス・マシュー・クルックスはシークレット・サービスのカウンタースナイパー部隊の反撃で射殺されたが、厳重に警護されているはずの前大統領への銃撃を許してしまったことに衝撃が走った。
犯人はトランプ氏から150メートル以内の低い建物の屋上から銃撃した。その場所へのライフルの持ち込みをチェックできなかったこと、銃撃の数分前に聴衆が犯人を目撃し、スマートフォンで撮影すると同時に警察に通報したが、警察が対応できなかったことなど、様々な問題が明らかになった。
私がここで整理しておきたいのは、マスコミが触れていないライフルの射程距離の常識についてである。
マスコミは何の疑いもなく銃撃場所からトランプ氏までの距離を「129メートル」「135メートル」といった表現で報じているが、これではシークレット・サービスと警備当局の責任などを報じるうえで基礎知識を欠いていることを露呈してしまっている。おそらく、ライフル射撃の経験などないジャーナリストばかりだったのだろう。
いささかの射撃経験をもとに述べておくなら、目標まで200メートルというのは視力がよければ裸眼で狙える距離だ。
私が陸上自衛隊生徒時代に訓練を受けたアメリカ製のM1ライフルは有効射程500メートル。射撃訓練では200メートル先の標的を裸眼で撃ち抜いていた。トランプ銃撃に使われたAR15は軍用のM16ライフルのフルオート(全自動)機能を外してセミオート(半自動)化したモデルで、有効射程500メートル。スナイパースコープをつければ200メートル以内の静止目標を外すことはない。ちなみに軍用狙撃銃の有効射程は陸上自衛隊が使っているレミントンM24で800メートル。狙撃距離の世界記録には3キロ以上というものもある。
そうした狙撃の常識から見て、トランプ氏から見て少なくとも500メートルの範囲内は徹底的なチェックによってクリーンな状態にしておく必要があった。バトラーというトランプ支持者が多い土地柄から、警備陣に油断があったことは間違いないところだ。
日本の警備当局がトランプ銃撃事件から参考にすべきは、ライフルの射程距離を踏まえたクリーンゾーンの設定だけではない。
銃社会のアメリカだけでなく世界各国で抑止効果を発揮しているのは、撃てば間違いなく射殺されるという「凄味」を漂わせた備えである。それが日本警察にはない。トランプ銃撃事件でも演壇後方の建物の屋根に陣取っていたカウンタースナイパー部隊が即座に反撃し、犯人を射殺した。銃撃を阻止することはできなかったが、犯人の射殺によって次なる犯罪を抑止した面があることは参考にすべきだろう。