食卓への愛着
夕食後に夫が皿洗いをしている横でクッキーをかじっていたら「ずるい!ずるいずるい!!」と騒がれたので半分口に放り込んであげた。
あんたさっきペペロンチーノ大盛りで食べてデザートにでっけえ桃食べて「もう何もいらない」って言うてたやんけと思ったが、人が食べてるとうまそうに見えちゃう気持ちもわかる。
美味いものは一人で食べても間違いなく美味いのに、どうして好きな人と一緒に食べるともっと美味しくなってしまうのだろうか、とむかしからよく考える。
味覚は記憶と繋がっているらしく、嫌いな食べ物には「吐いた」「喧嘩した」など嫌な思い出が付随していることがあるらしい。
これに至っては全部が全部そうではないだろうが納得のいく部分もある。
実際、私の次兄は幼い頃長兄がキウイを食べて吐いた姿を見てから今でもキウイを食べることができないらしい。
長兄はその際に初めてキウイアレルギーだと判明したらしく、たいへん苦しんだそうだ。
次兄がキウイを苦手としていることに大いに関係ありそうな話である。
私自身嫌いな食べ物はほとんどない。
天かすと甘すぎるプリンくらいだろうか。
どちらも味がしっかり嫌いなだけで何も嫌な思い出はない。と思う。
いやでもプリンは嫌な思い出もあるかも、いやでもいい思い出もあるし、そもそも好きじゃないから嫌な思い出になってるのかもしれないし…プリン…
天かすはシンプルに意味わかんなくて嫌い。カスっつってんだから食べ物面して蕎麦屋のメニューにいるな。
好きな食べ物はいっぱいあるので最近食べて美味しかったものでいうと、今日の夜デザートで食べたでっけえ桃と、この前の日曜日公園で食べた焼きたてのパンオショコラ。
思い出してみるとどちらも幸せな気持ちで食べてる。
今日の夜の桃は、先日道の駅のイベントに参加してもらった大きな桃で、楽しかったよねえなどと言い合いながら夫と食べた。
パンオショコラはとても気持ちのいい天気の日曜日、朝一番に買いに行って夏と秋の良いとこどりみたいな空気のなか、緑がたくさんの公園で食べた。
美味いから幸せなのか 幸せななかで味わうから美味いのかはわからないけれど、たしかにこうして考えてみると記憶と味は紐づいてるかもしれない。
そんなことを考えていたら先日知人の娘(小学二年生)が「みんなで食べると美味しくなるの、すごくない〜!?」と言っていて「若干7歳にして真理に到達しておる…」とクラクラした。
私がそのくらいのころは「マクドナルドのポテトに照り焼きバーガーのソースをつけるとめっちゃおいしい❣️すごい〜❣️」しかわかんなかったよ。
以前知人が「年々幸福度数下げていかないと人は簡単に死ぬぞ」と言っていたのだけど、毎日好きなご飯が食べられることって私にとっては本当に幸せで、そこに関してはずっとブレることがない。
生きることに直結している食事が幸福であれば死ぬことはない気がする。
なので私は虫歯治療も歯列矯正もして適度に運動もして、最後の晩餐まで自分で飯を食べれるようにするために生きる。
食べるという幸福、毎日あるのありがて〜〜〜
あの人に食べさせたいなどと思い浮かぶ顔があることも、一緒にご飯を食べる人がいてくれることも、何もかもありがて〜〜〜
みんなで仲良くおいしく長生きしようね。