北半球のオーロラ
夫の父が今月で60歳となり、定年退職となるのでお祝いをした。
定年退職とはいっても、義父は再雇用で65歳までは働くので大きく変わることはほとんどないらしいが、一つの区切りということでまとまった休みが取れるので温泉かどこかに一緒に行きたいと去年のお盆に帰省した際に言われた。
義妹は「自分からお祝いしてくれって言うのキモすぎじゃない?」とドン引きしていたが、「何もしてくれなかった」と勝手に拗ねられるタイプの人間(実父)を見てきた私からすると希望を出してくれるのはむしろありがてえ~~って感じだった。
というわけでこの前の週末は夫の家族と温泉へ行って義父の還暦祝いで何度も乾杯してきた。
宿の予約の段階からプレゼント選び、前日、当日、翌日と、夫には何度もお礼を言われてずっと感謝と謝罪をされていた。
全然謝んなくていいよ、めでたいし私も楽しいよ、と伝えたしそれらは本心だったけれど、私の家の家族イベントに付き合わせたとき私も同じような気持ちだったな…と思い出した。
結婚して戸籍上親戚関係になったとはいえ、そこからすんなりとリラックスした付き合い方ができるわけがない。
他人同士なので相性やタイミングもあるので絶対に仲良くならなくては…などと気負いこそしないものの、歩み寄る努力はそれなりにするし他人と過ごすことでの気疲れなんかは絶対に生じる。
夫婦間でそこを理解し合えていてよかった。
夫は自分の家族が嫌いだとずっと言っている。
驚くほどの田舎で生まれ育ち、土地ならではの謎の風習があり、自分の両親もそれを当然のように享受している姿が気持ち悪かったと言っていた。
それは嘘ではないのだろうけれど、夫の言う“嫌い”には葛藤のようなぐるぐるしたものを感じる。
どこの家もそうだとは思うけれど、家族というものは好き嫌いだけで推し量れるものではない。
嫌な記憶や水に流せない過去などが、根深く今も心のどこかで傷付いてることもある。だからといって恨んでいるのとも違うし、今さら穿り返したりどうこうしたい訳でもない。
それでも間違いなく好きな瞬間やあたたかい時間はあって、積み重ねたものは良くも悪くも簡単に覆らない。
手放しで好きだというには無理があるけれど、関わり合いを絶つほど愛情がないわけでもない。
端っこに追いやった愛情の取り出し方はいつもわからなくて、書きかけの手紙のようなものをずっと握りしめている。
夫と結婚してよかったなあと思うことのひとつに、誰にも気付かれることなく終わると思っていた小さな愛情のかけらを、少しづつ自分の家族へ差し出せるようになったということがある。
握りしめていた書きかけの手紙を開いて、綺麗な封筒に入れて、一緒に渡しに行ってくれるような、そんな心強さがある。
母にも兄たちにももしかしたら伝わってないかもしれないけれど、私は小出しに愛を込めることができるようになったと思う。
義父の還暦祝いの旅行はとても楽しくて、たくさん写真を撮ったりお酒を飲んだり温泉に入ったりした。
義父も義母も楽しそうで、二人に何度もお礼を言われた。二人ともずっと元気で楽しく過ごしていてほしいと思った。
夫も嫌いだという割に楽しそうだった。辞書に載っている嫌いと、夫のここで言う嫌いは意味が少し違うのだろうと思う。
義父も義母も、初めて会ったときから私に優しかった。歓迎してくれているのも伝わってきたし、義母の作るごはん美味しいし、夫の言う田舎の謎風習も異文化交流みたいで私にとっては面白かった。
「君の実家のごはん美味しいね」とか「このクソダサお札ウケるからインスタあげていい?」などと言うたびに夫はどこかホッとした表情をしていた。
辞書に載っている嫌いならそんな顔しないんだよな。
私が夫に救われたように、夫が家族に対して抱えていた愛情を少しでも渡せていたらいいなと思った。