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受け入れられるものは受け入れて、そうでないものは手放すだけ【映画「アメリカン・スリープオーバー」を20代OLが観て思ったこと】

屈託なく真実の愛を探していた少年少女時代に戻りたい…
的な意見が苦手だ。

セックスを経験したから汚れてしまったとか、もっと昔は純粋で潔白な愛を信じられたとか、言葉の意味は分かるけど、全然共感出来ない。

先日観た「アメリカン・スリープオーバー」がまさにそれだったように思う。
(私の解釈なので間違っていたらごめんなさいの極みなのです)
本作は、少年少女達が新学期が始まる前の夏休みに、恋や愛やセックスとはなんぞやという事を探求していくストーリーだ。
少年少女達は「運命の相手」を求めて恋のセンサーをビンっビンに(特に深い意味などありません)張り巡らせて男子は女子のお泊り会(スリープオーバー)を覗きに行ってみたり(暇か)、女子は上の学年のちょっと大人なパーティーに参加してみたりする。
しかしながら、いくら容姿や性格に惹かれても、「きちんと愛されたい」「真実の愛がほしい」と願う少年少女達は、中途半端な関係(例えば興味本位でキスするとか、誰彼構わず体を許すなど)を嫌い、パートナーを慎重に、慎重に吟味していく。
最終的に、少年少女達は自分の信じる運命の相手を探しあてたり、間違った(と判断した)相手と別れたりしながらも、真実の愛を諦めず、また明日も生きてゆくのです…(だから皆も頑張ってね)的な終わり方をする。

この映画が好きな方には大変申し訳ないし、あくまで私の意見なので異論はバリバリ認めるが、やっぱり共感は出来なかった。
私にとってはむしろ、
「少年少女達が、これは違う、これも違うと選ばなかった出会いも含めて、どの出会いも運命的で、素敵なのでは…少年少女達が自分の都合の良い展開だけを受け入れていたいだけなのは…。
セックスを知った大人が今日はゆきずりの相手でもいいから人肌恋しいとか、都合の良いように愛の表現を取捨選択していくのと同じことなのでは?
だとしたら、少年少女時代だけを美化するのはおかしくない?」
という疑問を残す作品だった。
(疑問なげー)

子供の頃、大人という存在は、私にとって絶対だった。
大人の言う事は全て正しくて、テレビでダメと言われる事は間違っていて、よしとされる事は正しいのだと思って生きてきた。
だから、恋は正しい相手とするものだし、ゆきずりの人と寝るなんて、とんでもなく病んでいて正常な判断が出来ない人や、良識の無い人がするものだと思っていた。
(いやそもそも正しい相手ってなんぞや)

セックスが身近なもの(身近というか、いつかやってくる一大イベントみたいな存在ではなくなるというか…)になると、真実の愛だったり純白さへの憧れがなくなってしまうのは、
真実の愛や一途に想い続ける純白さが、それもまた「ひとつの選択肢」からだと気づくからなのではないか。
真実の愛を求めることもひとつの選択肢だし、一晩限りの相手を求めることもひとつの選択肢だ。
全て単なる選択肢のひとつなのだ。
ヨガの先生がよく言うように、「受け入れられるものは受け入れて、手放すものは手放す」ただそれだけだ。
そこに優劣なんてないし、正解も不正解も無い
、と私は思う。

自分を愛してくれる人も、ゆきずりの相手も、皆特別だと思う。
ものすごい確率で出会って、ものすごい確率でそうなっているのだから、全部大切にしたら良いと思う。
その中で、どの思い出を大切に受け入れて、どの思い出を手放していくかは、自分次第で決めていけば良いんだと思う。
映画の中で、少年少女が、この人は違う、この人は正しいと取捨選択をしていたように、自分にとって都合の良いように人生を選択していけばよいのではないだろうか。
だから、真実の愛を一心不乱に求めていた(むしろそれしか知らなかったのかもしれない)人生の一瞬みたいな時間を懐かしがって、「あの時は良かった」「あの頃にはもう戻れないのだ…」的な懐古主義は私は好かない。

そもそも人生は楽しんだもん勝ちだと思っているし、恋や愛は魔法のような娯楽だと思っているので、誰がどうセックスや恋愛を捉えていようと、その人の自由だと思いたい。
だから、とにかく今を楽しんで、今私の周りにいてくれる人を大切にして、これから私と出会ってくれる老若男女全ての人にワクワクして生きていきたいなと、思う。
人生のいつの時だって、青春で、最高なんだから、どの自分もなるべく受け入れて、最高だな、って思いたい。


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