大庭みな子氏がとらえた津田梅子像
1990年頃 大庭みな子という作家が 自身も津田塾出身者で作家として活躍している時に 大学の保管庫から 梅子が書いた大量の英語の手紙の箱が見つかったことから その手紙を分析しながら 梅子像について書いた物です。
英語の手紙は梅子が世話になった米国の親代わりのような女性に向けた内容なので 正直で生き生きとした気持ちや出来事などが書かれています。
日本と米国両方を経験した人こそがもてる 両国の文化や生活 考えの
比較と冷静な観察分析。どちらにも厳しくて それぞれの理由や背景を考えている梅子でした。女性の視点で 生活 習慣 文化の違いに直面する悩みや 順応していく過程や率直な思いや 驚きなどがあふれた文章でした。古さをかんじさせない感覚で 知性にあふれたすごい人だとわかります。以下 ご紹介しながら私見も書いてみたいと思います。
梅子は日本文化を恥じていないし 欧米人に「対等な意識」を持っているからこその記述です。そして 自分たちが日本文化を維持しつつも米国になじもうと努力した経験から 外国人として海外に在住する者のあるべき姿が
ミッション系の米国人に見いだせなかったのでしょう。
また彼らの心の底にある アジア差別意識 上から目線意識を ひしひしと
感じたのでしょう。もちろん それは彼女が出会った特定の人たちに対して、であり すべての外国から来ていた人たちのことではないことは言うまでもありません。
こういう思いでいた梅子は自分の12人のきょうだいたちの中でも 弟たちにも家事を手伝わせ 女性たちが担っている部分を経験させています。
梅子は 庶民のいろいろな生活状況に衝撃を受けたようです。米国の様式で育ったから レディファースト精神や 生活の中でのマナーとしてのしつけも学んできていた人にとっては 当時の庶民のありようは ショックだったのですね。
彼女は母親代わりの女性から 英語という言葉と同時に 家庭教育のようなものもうけてきていました。子供に対しても 考えさせ諭させるような家庭教育だったのでしょう。考えてみれば 彼女は成長していく時のケア 生理への対応なども その育ての親が教えてくれていたことになります。
肌を出しすぎてはいけない、悪い言葉や恥ずかしい笑い方をしてはいけない、それはなぜなのか こういうふうにするとよいのだ なぜ良いのか、何が良いのか、と 知的 論理的に教えられ 考えてきたからでしょう。
いっぽう日本は 江戸から明治 昭和と 貧しい庶民たちの暮らしや あけすけな社会というのは ずっと続いていました。これはアジア的なものでもあります。子供をごろごろ産んで あとは親は働きまくらないと家計が維持できない。年長の子供に世話をまかせるしかない。汚れた服も 間違った遊びかたも 食事面も 世話して振り返り改善できるようなゆとりすらなかったわけです。
今でこそ 日本も 子供への教育について 整ってきているけれど
「何がよいのか」を考えさせるような幼児教育を 自分でもしてこられたのか反省しなければと思います。
ヒッピー文化の根底がそういうものとは知りませんでした。日本ではやったのは 表層的な ファッションを模倣する程度のことでした。
この時代 映画などで見ると どこでもそんなような男たちが当然のような生活態度だったのではないでしょうか。
英語社会では 女性も 好感などの感情を堂々と反応できる素地が 言語面でも保証されていたことに驚きます。女性が告白することが はしたない てことに ならなかったなんて。
たぶん 青春映画などでよくある卒業イベント「プロム」も しっかり男女の出会いを作り それを発展させていく場として 大人も公認の場として 社会が見守るというものだったのかもしれません。
今の日本でいえば 成人式が 一部では出会いの機会かな?
いや待てよ。時代劇では 庶民には 「祭りの夜に 神社の暗闇で・・」なんていう出会いと実行の機会が あったかもしれないけど(笑)
ただ 彼女も心の奥では好きだと思っていた人はいた模様です。
彼女は 当初 日本風の化粧や髪を結うこと それを維持するための
木の枕で眠ることにも反感を持っていました。
ベッドで快適な姿勢で眠っていた人にとっては 苦痛な様式というものは受けいれづらいことは うなづけます。
合理的な西洋型の生活様式 人間が楽になるための工夫という物をしていない雰囲気だから 相当イライラするでしょうね。
次第に梅子自身は 着物の良さ 素敵さに気が付き 日本人が無理に洋装しなくても と思い始め ずっと着物を続けます。
たしかに 明治の頃の文書などを見ると 毛筆で時候から始まり
そうろう文で文語調だし 暮らしの中で生き生きと話すようには書かないですよね。公式の手紙文には 定型文みたいな流れで いのちを感じられにくいかもしれません。
一方の梅子の手紙の文章は 翻訳文体のせいもあるだろうけど 本当に日常のまま 現代でも普通に読める文です。
当時の英語に 手紙マナーとしての文語と 口語の区別があったかどうかはわかりませんが。
だからこそ その時代に 文字も知っていて 自分の考えも持って 相手に
伝えようとして書いた 当時を表現する率直な文章って
とても貴重じゃないでしょうか。
男中心の小説家が書いたフィクションでもなく 社会をうつした新聞記事の
堅い文でもなく 物言わない女性たちの考えや生活ぶりをうかがえるような
貴重な第一次資料だと思えます。もちろん内容はごくごく上流の一部の層の生活になりますが。
だから 自分たちが日本でどう思われるか ということをとても心配していました。自分の率直な手紙内容が 米国の関係者に漏れないように、と
心配し続け 投稿する時も日本の女性とばれないような策をとっていました。米国での投稿も めぐりめぐって 日本で自分のことだとわかってしまうことをおそれて。
また 女学校を設立した後でも 下田歌子女史のような高い地位の人でも
あることないこと書かれて それを気に病んで気管支炎で苦しんだとか。
進歩的な動き 風潮に対して 古い人たちから攻撃の的にされるんだと。
なんとまあ いつの世も同じなのですね。
一介の 悪意をこめた文章が 地位や名誉を完全に奪ってしまうような
構造って ありますよね。
梅子たちは 米国に行った時も 親たちが日本じゅうから陰口を叩かれたのでした。鬼のような親だと。
1年に2000円の国費を使って10年間留学させてもらってきたこと。
(明治中期で 小学校教員初任給が月5円(年60円)
それに比べても明治初期の2000円がどれほどか。
その負担に対して 返さねばという意識は 彼女たちはとても強かったのでした。世間の目を恐れたのは その費用に見合う成果を出しているのか、という強い批判の層があったからでしょうねえ。
梅子の国に役に立ちたいという思いは 現実には 日常会話の不便さで 何の職場も無理だと 世話をしてもらえませんでした。
英語力をミッション系の学校や華族の女学校で生かすくらい。
その中で 見ている現状に だんだん彼女の考えが固まっていくのです。
こういう考えがだんだん固まっていくのです。
華族学校で一緒に2年間生活したアリス・ベーコンとも
日本女性たちの在り方について ずっと考えあってきたこともあったし。
次第に 華族のための学校(年俸800円)から 普通の民のための学校設立に燃えていきます。
さらにその職を捨てて 2度目の留学は 学校の組織や教育や経営のシステムなどを学ぶ視点も交えたものでした。そこで生物学を勉強。生物学とは 当時の世界的な科学の花形(新発見や理論の先端)だったらしいです。遺伝の法則発見とか。それでも 研究の道をあきらめて 当初の目的のために帰国。
帰国後は 色々な人の財政面での援助をうけ(兄弟や姻戚 捨松など)女学校を開校していきます。小規模だけど 私塾的なものだけど
女性の立場というものを真摯に考えていた彼女の理想とする女性を
育てるための学校です。
そのためには英語を武器にして 進んだ考えを自ら取り入れていけるような
カリキュラム。
そこでは 小学校しか出てない子でも学問を必要としているとわかれば受け入れました。
また 自分が優秀な成績で卒業して奨学金のご褒美をもらった米国の大学に
私塾の生徒たちを 留学させられる制度にしてもらいました。
この制度で受け入れてもらった生徒たち25人が のちに日本の女子教育界の先頭になっているのです。
梅子は開校の挨拶の式辞で
オールアラウンドな人になれ、と同時に 女子生徒たちに
些細なこと 言葉遣い 交際の様子 礼儀作法などでも 批評の的に
なってしまうので 気をつけて過ごすように 諭していました。
噂好きな人間の本性と 出る杭をくじこうとする意地悪な風潮は
自分たちに向けてだけでなく 時代の先端を学ぼうとする女子生徒たちにも
向けられることを心配してたのですね。
大庭みな子氏の考えだけど 女子大出身者は 男のいない環境で
いろいろな場面で 男向きと思われるようなことも やらざるを得ない
機会が多いということです。
たとえば演劇部でも 演出や大工 照明 責任者などの部門なども
共学だと男性まかせに自然になってしまう風潮に甘んじる。
でも 女子しかいない時は 工夫しながらやりぬくしかない。
この経験が 女性の力や価値にめざめさせられることにもつながるのでは
ないかと。
大庭氏が書いている時期は 90年代の日本です。
共学の女子のほうが 空気みて したたかに男を利用して ラクを
しているのかもしれません。社会の矛盾にも やみくもには歯向かわず。
平等が進んでいる国では 軍隊も肉体労働の現場でも 女性の従事者の
環境が整っています。やっと日本も最近 自衛隊とか工事現場とかに
配慮がなされだしたところのようです。
やがて 梅子は晩年 編み物に没頭する日々が多かったそうです。
編み物は 指を動かし 全身の血流をうながし 散歩に似た効用があると。
大庭氏も編み物するようになって 年寄りのてなぐさみだけではない 価値がわかったと書いています。
なるほど。編み物は 計算 幾何学 立体 なども関係するし
一目一目の力加減は からだの自助力のキープにもなるし
編みながら 脳がいろいろ考えをめぐらしていきそうだし。
大庭みな子氏は 梅子の手紙がなぜ津田塾に残っていたかを考えていました。
まず米国の親代わりだった女性が丁寧に保存していて それを
大学関係の女性にまかせた。その女性が大学で保管しつつ 後年 津田塾
などにもかかわっていたので 日本に持ち込んだ。
年老いた梅子にも了承をもらったとわかる書き込みなどもあるので
梅子も自分の考えが公開されるかもしれないことは承知だった。
戦争や空襲や移転などがあり やがて 塾関係者たちも中身を知らず
保管だけしていた箱が かなりあとになって開封されて 発見されたという経緯。米国の 資料保存に関してのポリシーのおかげですね。こんな大事な資料が戦争で灰にならずに 本当によかったです。
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