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アウラの破壊と混同


【はじめに】


今日、「アウラが云々かんぬん…」と言う話を聞いてフリーレンのかと思ったら、どうやらベンジャミンという人の芸術概念で、芸術作品を完璧に模倣した時、模倣品には果たして本物のオーラ(彼はアウラとした)があるのかというものらしい。

【アウラとは】


アウラとはナチスドイツの頃のドイツの哲学者、ヴァルターベンヤミンが唱えた、機械複製により喪失した芸術の要素のことである。このアウラは主に拝礼価値、展示価値を示すものであり、それが収集や写真化によって失われるのか否かという論争が起こっているのだという。

【礼拝価値と写真のアウラ】


拝礼価値とは、言わばお呪いであり、鬼道であり、宗教価値である。例えば教会の天井画が挙げられよう。ミケランジェロのシスティナ礼拝堂がそうであるように、教会の天井画というのはただの壁装飾なのではない。キリスト教の教えであったり世界観であったり、天井を仰ぎ見ることで神と人との距離さえも感じ取れるものである。この、その場所でしか味わえない芸術的な価値をアウラというのである。
この場合のアウラは写真の登場により崩壊していく。写真は芸術を平面的に記録をし、それを時間場所問わず見ることができる。それにより芸術を肌で感じることを人々はしなくて済むように錯覚していった。確かに絵は写真と本物の天井画とでは寸分違わず同じだろう。しかしそれだけで人は『知ってる』と思い込む。その芸術作品が持つアウラさえも。だって寸分違わず同じなのだろう、なら感じ取れることも同じであろうと。当然そんなことはない。写真から神との距離感は掴めないし、神聖視もしにくい。これがアウラの喪失である。
ではVRはどうか。仮想現実と呼ばれるものだ。「まるでそこにいるみたい〜」はそこに居るのと同義なのか。アウラはそこにあるのだろうか。技術が進歩すればいずれ音や湿温度、そこの香りですら再現できる時が来るだろう。そこまで同じになったとき、アウラは喪失したと言えるのだろうか。私は喪失していると断言できる。根拠は無い。ただ写真家として、芸術家の端くれとして生きる私としては、芸術の極地は感覚の世界であることを嫌というほど知っている。どれだけ本物に近づけようとも、やはり心のどこかで拒絶しているのかもしれない。

具体例を紹介しよう。呪術廻戦という漫画をご存知だろうか。この漫画では、五条悟という男性とその親友の夏油傑(げとうすぐる)という二人が登場する。ある時二人は再会を果たすが、夏油傑は何者かに乗っ取られている状態であった。しかし、声、話し方、態度などは本物そっくりである。ただ、その偽親友を見た五条悟は「視界は本物だと言っているが、魂がそれを否定している」と偽親友を見抜く、そういうシーンがあった。
ここで言えば夏油傑のアウラの喪失を五条悟は感覚で見抜いたことになる。今後そういう違和感を覚えることも多いだろう。ただやはり、本物は唯一無二であると強く再認識する。

【展示と収集のアウラ】


さて、拝礼価値と写真によるアウラの関係を見ていったが、冒頭ではもう一つの要素を述べている。そう展示価値である。
こちらも例があるとわかりやすいだろう。ロゼッタストーンを知らない者は居ないだろう。言わずと知れた古代エジプトの言語、ヒエログリフが書かれた大石である。エジプトの宝なのに今現在は大英博物館に保管されている。話はナポレオンのエジプト遠征まで遡るが、詳しい話は論点とは無関係なので割愛する。

各地の芸術を収集、展示することは先に述べた写真よりは破壊的では無いだろう。何故なら実物、本物そのものだからだ。先述したのは、偽物にアウラが無いことについてだが、ここからは本物にアウラが無い場合を考えていく。

ロゼッタストーンはエジプトに無い。そのためアウラが無いと断言できる。芸術において場所はとても大事な要素を孕む可能性がある。特に古代史や宗教史において、その場所にあるからこそ価値があるものは多い。芸術のネットワークが張り巡らされている。ロゼッタストーンはエジプトにあるからこそ歴史的権威を発揮するものであり、イギリスにあればその権威は削除され、歴史の遺物となり、近くの説明版の文字の説明が無いと何の岩なのかすら判別がつかないこともあるだろう。これが、本物にアウラが無くなる場合である。

しかし実はこの展示の概念すらも写真の破壊力には敵わなかった。写真を通して見れば、誰でもその芸術作品を見た気になるのである。しかも展示は芸術作品のアウラを失いつつある過程である為、行かなくても良くないか?という結論に至ることが大いにある。それほどまで写真は芸術作品のアウラを破壊し尽くしたのである。

【アウラと視点】


アウラについて説明をしてきたが、斎藤の優君から面白いお題を頂いた。
「おばあちゃんの形見はアウラを持つのか」

おばあちゃんの形見は他人から見ればガラクタに過ぎずとも、本人にとってはかけがえのない宝である。このかけがえのなさがアウラだとすると、立場によってアウラの有無が違ってくる。
考えられる可能性として、このアウラが普遍のものであるという前提のもとに成り立っていることが挙げられる。近代思想によく見られる問題点である。
しかし、私は違和感を覚える。そもそもアウラは、その人からの視点によって初めて生まれるものではないのだろうか。
学問の世界には「美学」と呼ばれる、美の学問が存在する。この「美学」では大きく三つの美に分別できるとしている。主観的な美、客観的な美、そして宗教的な美。簡単なのは宗教的な美だろう。神聖視する、表現できないような信仰心に近い何か。そして確かに世界を動かした大きな力である。次に客観的な美。モノを美しいと感じた時、その美はモノに宿るというものである。これはモノに宿るため誰もが同じ感想を抱くことになる。そして主観的な美。モノを美しいと感じた時、その人の心に美を見る目が宿っているというものである。
先述したアウラの普遍性は客観的な美に相当する。そして自明であるように現代思想では主観的な美が主流の考え方となっている。混在することはあれども。そうするとアウラは主観的な美に相当すると考察する。となると、前述した歴史的意義や説明文にはアウラは無いことになる。ロゼッタストーンに歴史的意義が無いのか。そうではない。その当時の古代エジプト人の視点を理解しようとする試みなのでは無いだろうか。そしてその試みこそがアウラであり、かけがえのないものとなるのではないだろうか。勿論ロゼッタストーンがもつ歴史的意義はあるが、それは写真で撮ろうが展示しようが変化することはない。こう考えると、絡まった思考回路がスッキリ解けたような気がする。

【さいごに】


さて、アウラについて考察してきたが、このアウラをどれだけ作品に込められるかというのは写真家としての私の課題でもある。良い作品のため、過去の哲学を学ぶことは技術の発展に繋がる。これからも本来の価値と混同せずに、アウラを求め続けられるよう精進していきたい。

2024/04/26

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