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スマホ越しにモノを見る人々
はじめに
街中のストリートピアノや大道芸などを観る時、スマホの側面を演者に向けている様子をよく見るようになった。ある程度著名な大道芸人さんなどは撮影禁止の看板を立てることもよく見かける。動画投稿チャンネルの利益を守る行為だろう。香炉峰の雪ですらスマホを掲げて見る時代である。これがどのような影響を及ぼすのか考察していきたい。
1.スマホ越しによる心象への影響
2.現代の共有主義故か承認欲求の為か〜理由を探る〜
3.二次元と三次元における価値の違いについての個人的感想
1.スマホ越しによる心象への影響
大道芸などの街中での芸でよく見られるこの現象。これを紐解くためにまず街中芸についての特性を考えなくては行けない。京都文教大学の鵜飼正樹助教授が「大道藝一演者と観客のかけひき一」にてこのようなことを述べられている。
一方に「演者」がいて、他方に「観客」がいる。 そして、 「演者」が「観客」に向けて、「演目」や「演技」を伝える。 この図式では、 一方的に観客が演者から演技を受け取る、つまり観客はもっぱら演者の演技を「見る」だけでおわっているようにみえる。しかし、そうではない。 観客も演者にたいして能動的に働きかける。(中略)この関係は、双方向かつ同時に成立しているのである。
このように、大道芸は双務的な関係の上に成り立つものである。演者が芸を投げ、観客が反応を投げ返す。そうして初めて役者と客が成立し芸が確立されたものとなる。同氏は後にこうも述べている。
大道藝を演じるさいに最初にやらなければならないことは、 場を「藝を演じる場(=舞 台)」 につくりかえることである。
街中芸は基本的に場もなく人もない無から始めなければならない。準備をして場を作り、人が一人足を止めそれが人混みとなり舞台は完成する。そこから先に述べた双務的な場が出来る。
勿論、違いに持つ双務的義務はあくまで努力義務である。だから観客は途中で観るのを放棄してもいいし、銭を投げなくてもよい。舞台に乗り込んで抗議をしても、芸を邪魔してもそれを止める合理的理由は無い(倫理的には大問題だが)。演者と観客がこの努力義務に基づく双務的な関係にある以上、動画撮影ですら許されてしまう。動画撮影は芸を邪魔するより個人で完結する分、倫理面に於いても問題はない。しかし、冒頭にも述べたが動画撮影を禁止する芸人も多い。歌舞伎や舞台演劇、映画などは十中八九撮影禁止である。
何故か。映画泥棒が上映前に分かりやすく伝えてくれているが、先ず著作権の侵害に当たるからである。その芸は練習に練習を重ねた芸人たちが魅せるものであり、それを守るための特権が彼らにはある。この磨き上げた芸を全く苦労していない他者が撮影し、それが動画サイトや友人への自慢などの利益に繋がることは芸人からすれば努力の侵害も甚だしいのである。利益の範疇は曖昧なところがあるが、撮影者が何らかの得を被れば蓋し利益となる。自分で撮影した動画を自分で観て芸を学ぶのも利益に当たるだろうし、それを友人に見せびらかして話題のタネを得るのも利益に該当するとみなせる。
そして、撮影禁止が敷かれる理由のもう一つとして、無秩序空間の形成がある。一人が撮り出せばまた一人、また一人と連鎖が始まる。そうすればこの空間は撮影してもいいんだと言う空間へと変わってしまう。そうなってしまえば、双務的な関係など有りはしなくなる。一方的に芸人が芸を観客に投げ、それを無秩序な観客は受動的にスマホのレンズで受け止める。撮影者は動画の、演者の芸の価値を下げないようなるべく自分の声を動画に入れないようにしたい。その為観客から芸人への反応を投げ返すことも減る。この時点で芸はすでに成立していないのである。芸人からすれば舞台が崩壊することは真っ先に避けなければいけない。そのための撮影禁止なのである。
2.現代の共有主義故か承認欲求の為か〜理由を探る〜
では、撮影者は何のために無自覚ではあるものの舞台を壊すのか。芸を見ること以上の利益があるからであろうか。森田夏代、田原恭子両氏が「成人看護学シミュレーション演習の動画撮影と視聴導入による教育効果」にてある結果を得ていた。
1台のタブレットPCを4~5名の学生が一緒に視聴することで自然とグループに一体感が生まれ、議論できるように変化したと考える。
二人以上のグループで見ることにより一体感を得たとの話である。動画撮影者が電子の海の住人であれ、友人であれ、誰かに見せることを目的とするならば、一体感の享受は一つの理由として挙げられるだろう。一体感による関係性の強化、または多くの人々と同じ感動を共有したいがための行動か。はたまた再生数による自己承認欲求の一助とするのか。理由は千差万別であろうが、他者との関係について撮影した動画を使うのは一つの理由としてあるだろう。
3.二次元と三次元における価値の違いについての個人的感想
撮影記録についての影響や理由について述べてきたが、記録と記憶の価値の違いは何なのだろうか。
「伝統空間のデータ化と閲覧システムの有効性と課題:データ化手法・閲覧形態の違いにおける「思い出」想起の差異を通して」という合同論文に面白い一節があった。以下は研究に於いてのインタビューを含む。
写真を含む画像・映像は、そこに修正が施されていない限り、過去の実際を正確に反映する。
それが写真の最大の特性であり、その特性を担保として人は「安心して」カメラで記録する。
しかし人は過去を全て残したいわけではない。
「全部記録すると、自分の記憶と違うとこが出てくる。記憶では楽しかったイメージも、崩れるということもある」。「記憶は長い年月の中で変わる。それがその人にとっての「本当の事」になる。残したくない記憶が出てくると、私が何十年間生きてきたイメージが崩れる」
スマホなどによる記録は正確性のみが持ち味である。そこに感情は乗りづらい。
記憶は正確ではないために心へ好印象と共に修正がかけられる。細かな部分ではなく感情により記憶する。そのため良い気持ちであれば欠点などは記憶できないし、悪し感情であれば粗探しした記憶がよく残るだろう。記録と違うのは欠点や粗全てを記憶することはできない点である。この一人一人が自分の感情によって修正した千差万別な記憶は本人のみのかけがえのないものである。その感情は感じた本人しか知り得ないものだ。一つの芸を見るにしても、「凄い!」と見るか「この技のここが上手い」と見るか、「まだ技術が粗いな」と見るか。人によって様々だからこそ思い出はかけがえがないのである。記録に思い出はない。我々が旅順陥落の写真を見て感じるものと、その時旅順にいた人が写真を見返すのとで差が生まれるのはここの部分である。感情が揺れるか、あの時の感情が想起されるか、記憶が呼び覚まされるか。
個人的な感想にはなるが、写真家として活動することはファインダー越しに世界を覗くことである。私が最も写真作品に於いて重要なことは感情を写真から感じるかである。ただの記録になってはいけない。例えば「インスタ映え」。これは間違いなく記録である。盛り盛りのスイーツやシュメール人顔負けの大きい目の加工自撮り、キラキラオーロラに美しい夕焼け。写真はこれらを記録してしまう。一枚の二次元に落とし込み、感情を排してしまう。動画ならば周りの声や感想などで感情を乗せられるだろう。映画はその良い例である。しかし写真は記録媒体となりがちなのである。声も匂いも雰囲気も全て入らない。そのため如何に感情を写真に込めるかが私の最も大切にするところである。後輩に写真を教える時は常にこの部分を強調している。この写真には感情があるのか、と。感情のない記録写真であればAIで十分である。AIに撮れない感情のある写真こそ写真家の芸術家たる所以であると強く思う。是非後輩たちの感情を文化祭で見てもらいたい。彼らも随分と成長した。
話を戻そう。動画撮影による感情などの排斥は、正確性が担保されているが故に多くのものを失うこととなった。記録として歴史的な価値、存在した証明としては十分な動画たちは、協調最優先のの令和人の流れの中で、修正による個々人の記憶の良点を上回り、芸を無機質なものへと変えていったのである。
さいごに
感情面を捨ててまで他人との協調を優先するのは所謂Z世代の特徴として語られる。それ自体は時代の流れなので仕方がないものだとしても、何を失ったか、何を得られたのか我々は知るべきである。
2024/09/13
参考文献
鵜飼正樹 大道藝一演者と観客のかけひき一 2003年10月18日、 生活美学研究所本年度第5回定例研究会における講演に基づく
森田夏代、田原恭子 成人看護学シミュレーション演習の動画撮影と視聴導入による教育効果 日シミュレーション医療教会誌第9巻 2021年
渡辺暁雄 、三浦彰人 、小関久恵 伝統空間のデータ化と閲覧システムの有効性と課題:データ化手法・閲覧形態の違いにおける「思い出」想起の差異を通して デジタルアーカイブ学会誌 2020, Vol.4, No.2
案内係やーぼのブログ "開場前の撮影禁止の理由について考える" HatenaBlog 2021-08-01 https://ya-bo.hateblo.jp/entry/2021/08/19/satueikinnsi (参照 2024-9-13)