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くっころ論 くっころの真の力を考える
ふとpixivを眺めて考える。
くっころってなんなんだろう。
くっころとは皆さんご存知、
「くっ!殺せ!」の略である。
よく女戦士が敵に捕えられた時の常套句、いわばお約束のようなフレーズである。
初出は如何やら定かではないそうだが、幾つか疑問が生じた為書き記しておく。
当たり前だが、令和の、戦争のない地域では、敵に捕まって陵辱を受ける試しがない(ウクライナ戦争にて、同意書と録音をした上で陵辱を受けたなんと言う嘘か誠かのニュースがチラリと流れたことはあったが)。仮に誇り高い者が捕まったとして、誇りと命を天秤にかけて誇りが重くなるのが武士道精神、騎士道精神に基づいたものだろう。近代化、個人の分裂と資本主義の波による誇りの地位低下、それに伴う個人の社会的価値の変化。ニーチェが楽観的虚無主義を唱え出した頃にはもう誇りが命より重さを持つことは無くなった。くっころは、そこに在る武士道精神は、現代日本人の違和感を誘発し、作品が現代にとって非現実だと告げる。時雨が冬の雨の冷たさを提げるように、明石と赤しが繋がるように、くっころが世界観を連れてくるのである。
面白いのはこのくっころが定型句と成り現代に溶け込んだことである。慣れ親しんだ非現実と言えば良いだろうか。一見パラドクスに見えるのは、現代までにおける日本語の寛容さにあるようにおもえる。外国語でくっころに当たる言葉があれば、その言語もその寛容さを持ち合わせるのだろう。この寛容さは多くの独特な日本文化を生み、育んできた。この寛容さはあらゆるところに散見されるが、中々に多いので今回は割愛する。ご愛嬌。
くっころ自体、「くっ!」で捕虜となった悔しさを噛み締めると同時に、「殺せ!」と叫ぶ。誇り高き騎士が、誇りを大切にしていた騎士がここまでの粗暴な言葉遣いとなっているのである。既に捕虜となった時点で誇りを踏み躙られていると「認めた」のである。言い換えればその後の展開はこのくっころ側が主導権を握られる展開となる。勿論捕えられているから主導もへったくれも無いのだが、このフレーズを言った以上、縄を引きちぎり何もされずに敵をボコボコにして逃げることは面白い物では無い。これは陵辱を楽しみにしていると言うより、ここまでの流れが潰れることへの憂いである。そのどんでん返しはもっと終盤でやれ。義経公が弁慶に1000本目を与えるようなものである。赤穂浪士が吉良邸で返り討ちにあいメソメソ帰るようなものである。くっころはそれだけ定型句として重い力を持っているように思える。重い力が働くと如何なるか。少なくとも我々日本人は笑いに変えようとする。重い話は笑ってしまおう。落語にはじまる伝統芸能である。寿限無は、あってはならない滅茶苦茶で面倒な名前というハンデの話だが、その長名は全て縁起のいい物で構成されているから文句が出ないという、うまい笑いの変え方に落とし込んでいる。くっころも、今では笑い話の掴みとして使われることも増えてきた。殺せ!などと物騒で直接的で粗暴な言葉遣いを避け、くっころとひらがな表記にしたのも、そう言う理由があったのかもしれない。それほど、くっころは物騒な状況、言葉でありながら現代日本人に好かれる存在となっているのだなと、実感する。云爾。
2024/9/24