“褒められる”って大事なことだ

布団に入って、いざ寝ようと目を瞑っている時ほど書きたいことがむくむくと出てきて、書かずにはいられない。思考なんてナマモノのようなもの。明日には忘れてしまう。もうすぐ3時、Macを持ち込む。

先日noteで、卒業式のあと習い事をしている場所に行って、ピアノを弾いた記事を書いた。先生がせっかくなので、お母さんの前で弾こうと提案してくださったのだけど、幾分人に聞いてもらうことに慣れてないし、楽譜は覚えてないので初見だからまともに弾けてないというぐだぐだな回だった。(提案してくださった先生には感謝してます。めちゃくちゃおしゃれな連弾をしてくださった。)

初見の譜読みに手間取るので、ピアノとフルートをやっていた親に先に譜読みされて若干馬鹿にされていらっとした時に気付いた。

「音楽やってて、好きなピアノを弾いてるはずなのに全然楽しくない」って。

残念ながら緊張感を楽しめるタイプではなく、プレッシャーになってしまうタイプなので発表会はこれまでごめんだし、楽しく無かった小学校時代のピアノは早々にやめてしまった。うまく弾けなさすぎて先生にため息をつかれるのはしんどかった。

この出来事があって、ふと考えたけれど、私は「褒められて成長するタイプ」だって胸を張って言える。世の中には悔しい気持ちだったり、うまくなりたいってダメージを受けても頑張れる人がいるけれども、私はそういう状況下にあっても自分が楽しいと思えなきゃやってて意味がないと思ってしまう。同じ“ピアノを弾く”ということであってもこんなに気持ちに変化が現れるのだと気付いてしまった。

大学2年生の春から習いなおしたピアノは今年の春で4年目に突入するけれど、こんなに続けられたのは、今の先生が褒め上手ってところがとても大きい。

習いたての頃から「センスあるね」とか「吸収早いね」とか、お世辞でも言い続けてくれたから今まで続けられてきたのだろう、とつくづく思う。ピアノを習っているくせにピアノは自宅にないし、週1・30分のレンタルでそんなに早くうまくはなれない。でも先生に聞いてほしくて、先生に褒めて欲しかったからここまで頑張れた。

中学校の時に大野智に憧れて、ダンスを習い始めたけれど、人の動きに全くついていけなくて、自分が惨めな気持ちになったからやめてしまったことがある。それでも1年くらいは続けたけれど、全くうまくなる兆しはなかったし、素質があるとも自分でも思えなかったし、思われてもいなかったと思う。“みんなと踊る”という楽しさを見出すことができなかった。やはり土台には楽しさが必要。

反対に、文章を書くことは小学校低学年の頃から褒められてきた。小1の頃にめちゃくちゃ怖かった担任の先生が、家庭訪問か何かで親に「文章のセンスがある」って作文を見ながら言ってくれたのがとても嬉しかった(それを後日親から聞いた)。

3ヶ月前に書き上げた卒論は、口述審査でも突っ込まれた質問をされずに、完成度の高い優れた卒論だって褒めてもらえた。その上、卒論の分野の優秀論文にまで推薦してもらえて、専攻内での賞もいただけた。卒論といえど、思いの丈をつらつらと綴り、興味のある範囲にあっちこっち手を伸ばして、自由に書かせてもらえたので、まさかこんな賞まで自分がいただくことができるとは思ってもいなかった。

中学校入学したての学力テストの国語で、学年トップ3に入った時も親が「センスあるじゃん」って褒めてくれたのが嬉しくて、今でも覚えている。

でもなんか、そういうもんなのだと思う。向いてるやつとか、ちょっと人より能力があると思われることって、自分から積極的に掴みにいかなくても、自分の楽しさだけで評価されたりするものではないだろうか。だから、卒論も自分は頑張ったつもりがなくて、書きたいようにのびのび書いていたら、知らないところで評価されていた。

元々もっているものってある程度限度があって、そこからどう伸ばすかは自分自身の努力にかかっていると思う。でもその努力を努力したと思わずに、楽しさだけでどこまで伸ばすことができるのだろう。楽しいからずーっとやってきた行動力でどこまでの力が身につくのだろう。私がnoteをもう一度やり始めた理由も実はそんなことだったりする。


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