空堀の記憶〜戦前の瓦屋町〜
(空堀の記憶17夜メモ 2024年9月13日)
井戸端会理事として何度も登場している空堀商店街の丸与Oさん(96歳)と、16夜にも登場した竹内志郎さん(91歳/体調の都合で、ご家族のフォローを得て、音声のみ登場)のお二人に戦前の瓦屋町を中心について語っていただく回。
瓦屋町ってどのあたり?
かつては瓦屋町一番丁から五番丁という名称だった。
地図上には瓦屋町一番町通、瓦屋町二番町通などに残されているぐらいである。現在の地名は、大阪市中央区瓦屋町1丁目から3丁目となっている。
かつての瓦屋町一番丁から五番丁のエリアは、瓦屋町1〜3丁目に加えて、高津一丁目・中寺一丁目・谷町六~七丁目・松屋町の一部も含まれている
※大阪市中央区のHPより
図書館にある中で1番古い住宅地図が昭和50年代ごろだそうで、それも使いながらお話を進めていく。
地理歴史のこと
現在の中央小学校があるところに金甌(きんおう)小学校(国民学校)があった。「金甌」の地名の由来は、金の瓶(かめ)が発掘されたことから。
瓦屋町の由来は、瓦屋があったから。瓦を作るところではなく、瓦を売るところだった。瓦屋町一番丁のあたりは特に坂の勾配がきつく、商売をするには向かなかったとされている。二番丁より先はいくつか商店があったようだ。
また、すぐ北側に位置する桃園や田島町のあたり(現在の谷町6丁目、7丁目の一部あたり)は土取り場だった。現在窪地になっているのは、土を取った跡地である。ここの土が大坂城だけでなく、江戸城などの瓦にも使われており、瓦は、江戸まで運ばれていた。土を取った跡地となる窪地のことを野漠(砂漠ではなく…のばく)と呼ばれていた。その後、江戸時代後期ごろから家が建ちはじめたといわれている。
子どもの頃のこと
まずは、戦前のこと、ということで「学校の思い出」から。
お2人とも、学校では、行事や祝日など事あるごとに“教育勅語”と読まされたといいます。
竹内さんは、松屋町筋の真ん中には、英米の国旗が描かれており、それを通学するときに踏んづけていくということもあったというお話も。
子どもの頃といえば「遊び」ですね。
戦前からものがなかった。野球をするにしてもボールがお小遣いで買える値段ではなかった。戦前からすでに小学生だった岡田さんが言うには、お小遣いは当時、1日2銭 (市電が大人6銭の頃) だったとのこと。
松屋町にはおもちゃ屋さんお菓子屋さんの卸問屋があった。お菓子は試食させてもらっていた、日持ちする干菓子しか扱っていなかった。いずれも地方を相手にした商売だった。
戦争や空襲のこと
戦時中のお2人の暮らしはというと、
竹内さんは10歳から12歳(小学4年から6年)まで加古川に疎開しておられました。
岡田さんは大阪で暮らしており、学徒動員でクボタ鉄工に(大正区の大運橋のあたり)通勤していたそうです。
空襲では、岡田さんからは田島町、中寺町など各所に爆弾が落ちていた。爆弾と焼夷弾では、聞こえてくる音が違い、それによって対応方法も変わっていたといいます。また、終戦直前の8月14日に砲兵工廠の爆発があったのが見えていたとのこと。
竹内さんも疎開先から神戸方面の空が赤く染まるのを見て、綺麗だと思ったとのこと。
大阪大空襲で多くがやられてしまったものの、空堀界隈が焼け残ったのは、当時の風向きが関係していたのではないかとのこと。
終戦当日のこと
終戦は、8月15日正午のラジオで知らされました。
岡田さんは終戦当時14歳、工場にいたそうです。食堂に集められ、大音量スピーカーで聞いていたが、よく聞き取れなかった。その後、先輩から新聞を買いに行くように言われ、新聞を読んで、終戦のことだけでなく、広島や長崎に新型爆弾(原爆)が落とされたことを知った。
竹内さんは疎開先にいて、ラジオを聞いていたが、よくわからなかった。周りの大人たちが戦争が終わったと言っていたとお話しされました。
戦後の瓦屋町
空堀の中心部に比べ、瓦屋町は焼けたところが多かった。当日、まちには進駐軍がいてたそうです。
配給は戦時中からあった。最初は1食分1人あたりのお米9石(せき:1合の0.9)だったが、戦争になるごとに配給される量がだんだん減っていった。お米も精米が分付き米になり、玄米となる。さらに、米の代わりに、大豆や脱脂大豆になったりしたことも。
ちなみに玄米は一升瓶に入れ、棒で突いて精米していた。そうです。案外配給の量は多いんだなと感じますが、配られていたのは米だけなので、おかずがなかった。
といっても、みんながみんな貧しかったわけではなく、お金持ちもいてたが、貧富の差が大きかった。
戦前戦後のまちの風景〜川〜
大阪にはたくさん川や橋がありましたが、現在は多くが埋め立てられたり、暗渠になっています。長堀通りも川でしたよ!今も川として現役なのは東横堀川ですね。
川は移動手段。とくに瓦など重いものは船で運んでいた。荷物の上げ下ろしのできる荷揚げ場が至る所にあった
東横堀川は泳げるくらい綺麗だった。階段で上り下りすれば川に直接行けた。今は堤防で行けなくなってしまった。最近、水門ができたので堤防が低くなるかもしれないという話も。
ちなみに、陸(道路)の運搬は三輪バタコ(オート三輪)を使っていた。
生活の話にも
岡田さんが幼少期の頃から水道はあったので、上水道は大正時代からではないか?と予想。でも、まちじゅうに井戸があり、井戸の方が安かったので水道水よりも井戸水を使うことが多かった。井戸は、屋敷に1つ、長屋に1つ(共同井戸)くらいあちこちにあった。
竹内さんが、水売りを見たことがあるとのこと。大川や毛馬の閘門から来ていたのかなぁと。
一方でトイレは水洗ではなく、汲み取りだった。肥を集める肥屋さんが月に一度くらい、定期的に集めに来ていた。竹内さんが地蔵坂で肥えを集めていた車がひっくり返ったのを見たそうで、なんと、大惨事ですね!
いまはなくてはならない電気。昭和12年頃までは電気は灯りのためのものだったので、日暮から夜明けまでしか通っていなかった。家庭にコンセントが取り付くようになったのは戦後以降では。そのため、電化製品はほとんど見たことがなく、お金持ちの家に扇風機があったので驚いたというエピソードも。そんな灯りのもととなる電球は交換性で、変電所に持っていくと新品と交換してくれた。転んで電気を割ってしまった時も交換するものを持っていけば交換してくれた。