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Prologue このまちと私の10数年

今、空堀(からほり)というまちに関わっている。

仕事なの?と問われる

それは、仕事はなく、ライフワーク的な感じ。


「まちおこし」「まちづくり」とかやっている、と言われることもあるけれど、比喩するものがないだけで、大それたことはやっていない。

このまちに関わることで多くのヒト・モノ・コトと出会ってきた。

空堀の風景

空堀は、大阪の中心部にありながら、戦災に逃れた長屋が多く建ち並んでいたまち。


大阪中心部がどんどん開発されるなかで、タイムスリップしたようなまちの風景はじわじわと失われつつある。

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関わりはじめ

さて、私が、2006年に「からほりまちアート」の運営スタッフになってから12年がすぎた。干支ひとまわり。その時誕生したひとはもう中学生になっているぐらい。

空堀のまちを訪れたのはそれよりも前、2002年の夏ごろ。
でも「どっぷり」関わり始めたのはこの2006年から

のちのち説明していくからほりまちアートというアートイベントに関わってきたのが2006年~2010年、その後、からほり倶楽部・空堀ワークショップフェス・ぶら空堀まつりetc…色々な企画やグループに関わっている。

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からほりまちアートに3年、4年と関わっていく中で、惰性や解消されないみんなのモヤモヤの原因はなんだろうという疑問を持つようになった。この感覚の原因を探るべく、からほりまちアートをもっと深堀りしたいと思うようになる

空堀の活動がきっかけで人生転換

30歳を目前に、これまでの活動を整理してふりかえるための研究をすれば、何かわかるかもしれない、と一念発起して大学院に進学する決断をした
その、決断をした直後のミーティングで「今の形のからほりまちアートは今年で一旦終わりにしよう」ということになったけれど、終わった次の年には東日本大震災が来て、日本の社会状況や個人個人の考え方も大きく変わっていったように思う。1区切りできたことは良かったと今でも思っている

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とはいえ、大学院時代にうまく研究ができたかというと、そうでもなく、2013年1月に提出した「からほりまちアート」の修士論文も消化不良な部分がたくさんあった。当時、悩んでいたり、出てこなかったことばや表現が、日々頭の中をめぐっている瞬間や空堀の話をしている場や他の活動の中で、ハッと出てくることがある

2畳大学の留年論文

2017年に友人が運営する2畳大学で「留年論文」という企画に参加した。


そのとき、気になっていることをまとめていく中で、やっぱりこのまちで見てきたことをまとめたいと思い、分析できそうなことをやってみたり、修論と合わせてみたりしたけれど、「まちづくり」「地域」という分野は、研究というある意味で普遍的なものにまとめるということは大変難しいと痛感した

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先日(2018年)、からほりまちアートの運営に関わり始めた頃に出会った友人とからほりまちアートでの出会いから広がっているつながりや空堀の「ゼロ年代」「10年代」のことなど改めて振り返りながら話す機会があった

そんなこんなで

修士論文も留年論文もなんとなく中途半端な感じで、未だ消化不良のところがある。空堀というまちに出会って15年、今更なところもあるけれど、できる限りのアウトプットをしていきたいと思い、noteでマガジンを書いてみることにした。

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