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空堀の記憶~みんなの記憶 part2~

(空堀の記憶 2020/2/4 メモ その2)
これまでのまとめの意欲?を買っていただき、私が進行役として関わらせていただき、多くの方からのお話を聞く回となった。話題が尽きないので2回に分けて。

part1はこちら

イメージを膨らますために登場した1冊の本から

会場である丸与ホールにあったのが「大阪市今昔写真集 南西部版」という写真集で、空堀商店街の風景がいくつか載っており、Oさんも写真を提供されている。

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みんなの家が映画館になる日

この写真集を回し読みしながら話す中で「ラジオやテレビはいつから家にあったか?」という話題になり、ラジオは当然ながら戦前からあったのだが、当時は電気がいらない鉱石ラジオだった(なんと!)。ピーピーと雑音が多かったようだけれど…
戦後しばらくまでは電化製品が家になく、電球もほとんど使わず(戦時中は明かりを付けたら狙われるから暗くしていたのもある)、ほとんど、電気に頼らない生活だったから、停電してもあまり困らなかったという話も。

また、Yさんの昭和20年代は息子さん出産の年代と結びつけるのが上手で、末息子が生まれたときにはあったからテレビは昭和28年頃には家にあった。(当時は商店街の中に住まいがあったので)同じ商店街で商売をされている方から百貨店とのつきあいでテレビを買うことになったから1台買ってくれと頼まれたので、他に家よりも早い段階でテレビがあったそう。阪急テレビって名前だった。というと、誰も聞いたことがないなぁという顔。すると、昔の話にとっても詳しい戦後生まれの井戸端会理事Yさんが言うには「テレビの箱は木製だし、中の部品さえあれば誰でも作ることができたからテレビが出た当時はメーカーが乱立していたのでは?」というご意見。なるほど。

ちなみにテレビ番組は、すもう、レスリング、ニュースぐらい。
井戸端会事務局長Nさんは子どもの頃ラジオの子ども番組と「君の名は※」という番組が楽しみだった。※もちろん今のアニメとは全く別モノ。

Yさんが小学生の頃、先生が「将来みんなの家が映画館になる」と言っていたけれど、今は本当になっているね、というお話も。

「金歐」って何て読むんですか?

現中央小学校がある、空堀の南西の地区は「金歐(きんおう)」という地区で、中央小学校は、かつては金歐小学校が建っていたのだが、約30年前に4つの小学校(金歐、桃谷、桃園、東平)が統廃合し、中央小学校として建替えられた。

金歐の由来について校長先生からよく話をしていて、今でも覚えている、という話も。ちなみに金歐は、金の瓶が発掘されたことが「金甌」の地名の由来で、敷地はもとは地方の武士の屋敷だったらしい。

敷地は、平成3年に中央小学校になるときに私有地を買い取り、現在の敷地になっているけれど、金歐小学校だったころはとっても狭かった(part1のお金の話題のところでグランドが狭くて運動会は遠くの競技場へ行っていたという話にもつながる)、金歐の校舎はモダンだったよね、という意見から金歐小学校の校舎は、14万円の寄付で建設された。校医に来ていたのが小説家万城目学のお祖父さん(耳鼻咽喉科の医者だった)だった。

学校の名前と地名と言えば、、、桃谷は桃の名所だったけれど、どこに桃があったのかわかっていない。環状線の桃谷駅は、当初は「桃山駅」だったのに、京都に「桃山駅」ができたときに「桃谷駅」に変えたとか…本当の桃谷はここのこと(空堀の北東)なのに、という話を以前聞いたことがある。

平成元年に東区と南区が合併して中央区になって30年経ち、平成3年に4つの小学校が統廃合して中央小学校になり、まもなく30年。住所に残らない昔の町名や地名がどんどん忘れられてしまいそうだ。

やっぱり先輩は敬われる中学校

空堀周辺の小学校出身のみなさんが通っていたのが「上町中学校」
もうすぐ70周年となる。

中学校の開学に伴い、大阪市立盲学校跡地に建設されることになったが、グラウンドよなる周辺の私有地を買取るのに時間がかかっていたなどで、道仁小学校に間借りしていたそう。(道仁小学校内が上町中学校の分校だった・現中央会館・島之内図書館)私有地を取得中だった上町中学校のグラウンドになる予定だった私有地には、「お化け屋敷」と呼んでいたボロ家があったらしく、生徒たちの肝試しにもなっていたそう

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お化け屋敷時代の写真


まちの風景エピソードや子どもたちに遊び

子どもの遊びの中で、今の子どもたちの遊び場は基本的に公園しかないけれど、いつから今のように車通りが多くなり、路上で遊びにくくなったのか?

いやいや、車ではなく荷馬車が走っていた。という「馬」のエピソードへ。空堀は、西に向かって坂道。馬が坂道を転げるように走り、転んで使いものにならなくなるとそこで首をはねられたとか。(これは江戸時代とかの話)Oさんからは、商店街で荷馬車が下り坂でスピードが速まっていく荷車に合わせて馬がすごい力で走り抜け、電柱(?)にぶつかったときにすごい音がした、馬力というのはすごいという話を聞かせてくれた。荷馬車は角を曲がるとき、坂を下るときがとても難しいそうだ。

商店街も周辺も石畳が多かったけど万博以降アスファルトになった。家の前が石畳だったが、アスファルトになり、車の抜け道となってしまった。車が少ないころは地面に落書きをして遊んだ。ロウセキを買ってきた。
戦前、商店街は木レンガだった。木レンガはよく燃えるから焼夷弾が飛んでくると危険だったので、みんなで掘り返して燃えないようにしたり、掘り返して燃料にしたり、、、使えるものは何でも使う。

参加者からの意見などまとめ

空堀で知りたいこと
50年以上続いている店は?
近年の商店街の商店移り変わり

気になったこと
戦後物流,物の運搬について
地下鉄はいつからある
高津の宮 井戸掘ってるの?
すすき病院の話を聞きたい
大阪市歌いつ歌うの?
大阪市歌の「高津の宮~」は、大阪人の仁徳天皇の好きの象徴(税金止めたから)
直木三十五の話を聞きたい

提案
空堀の記憶焼き増ししてほしい
ゲストになってくれる人が出にくいので土日の午前中にしてはどうか?

感想コメント
昔を思い出して楽しかった
具体的にわからないけどまた参加したい
初めて参加していっぱい話して楽しかった

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piyoko
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