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空堀の記憶~女の子の遊び~
(空堀の記憶 2017/1/20 メモ)2017年1月20日
この回は、私ではなく、空堀まちなみ井戸端会理事であり、からほりさろん/高齢者外出介助の会の代表Kさん(70代)が参加できない私に代わって、書いてくれたものを許可を取っての転載です。(最後に引用元を記載)
「からほりさろん」についてはこちらから…
あまりうまくまとまってないのですが。
空堀の記憶「空堀の女の子」
今回は空堀でおでん屋さんをされているUさんのお話です。とても寒く北風が吹いた日で参加したいと言っていた方も、この寒さではと見合され、ちょっと恨めしい天気でした。
当時はやったギンガムでギャザースカートを作り髪にリボンをつけ昔のような可愛いいでたちではじめられました。
話はとても懐かしくほっこりするような雰囲気でした。
Uさんは3歳で空堀に引っ越してこられました。(旧)スーパーコーヨーの前あたりで呉服屋さんが家業。裏の戸を開けると谷底みたいで、空堀の初めての記憶は、夜中に店のガラス戸をたたく音で、父は、ここらでっも狸が出ると言っていた。でも狸は今も見たことはない。その当時、空堀にはお店はいっぱいあった。
*島之内の方が早く復興し瓦屋町は遅かった。
*当時はサトウキビや南京などどこでも空き地があれば植えていた。
*焼夷弾で天井が突き抜けた家に嫁いできたと参加された方の話も。
小学校では学芸会があって、柿の種やフクロウのおばあさんなど、端役ばっかりだったが洋裁を習っていた姉がいつも服を作ってくれて一番目立っていた。写真で柿の種の役をしたUさんが白いきれいな服を着ている写真を見せてくださる。
遊びはよく人形ごっこをした。自分で人形や服を作りそれを箱に入れて商店街を風呂敷で包み友達の家に行くのだけど、よく近所の大人は「女中さんの宿替えか?絹ちゃん」と声を掛けた。その当時女中さんが奉公先を変わるとき、小さな風呂敷堤一つで変わるのが多かったようです。
ままごと遊びではお坊さんが帰るのを見届け仏壇に飾られた花を取ってご飯などにして遊び見つかってはよく怒られた。
またお姫様ごっこをしようと友達の家に行ったがお姫様になれなかったら「帰る」と言って、帰ってきた。
わがままだったかなー。
おじゃみも紙の着せ替え人形も手作りで持ってきてくださっていました。
手遊びでは10センチぐらいの竹の棒を手に載せて遊んだことも話しておられました。
思い出では、かくれんぼでおがくずがいっぱいあるところに隠れた時、アリジゴクみたいで抜け出せなくて、靴をなくしてしまったことがあった。
踊りが好きで、盆踊りはどこのもみんな行った。空堀商店街が一番早く二番目は桃谷小学校前、三番目は安堂寺で踊りに行った。空堀など商店街で踊るので長い輪で道に沿って踊り商店街に来た人はその輪を抜けて通っていった。
*盆踊りに行く写真を見せていただきました。家が呉服屋というので絽の着物を着た植田さんですが、ふつうは浴衣でした。
他には塗り絵
*紙に女の子などの絵がかいてありそれにクレヨンや色鉛筆で色を塗って仕上げる遊び。のインクの臭いがなぜか好きだった。
マリ遊び。ゴムまりで遊び歌を歌いながら道で遊んだ様子も再現され、参加された方からも、遊び歌はところが変わっても同じというのでした。ほかに、ゴム飛びもした。ゴムひもを商店街を横切って子供が端から端でもって渡して遊んだけど怒られたことはない。あと、ロー石で道一杯に絵をかいたり線を引いてケンケンもした。
夜店も4のつく日に開いていたようです。お祭りは生國魂神社さん高津さんにも一人で飛び回って行っていたのが記憶にある。
夜店で、水占いというのがあり紙に書いて水に入れるとそれらしい答えが紙に浮かび上がってくる。母が弱かったのでそんなことを書いたりしていた。
その当時の友達はなぜか和ちゃんという名が多かったのも今思い出す。
映画は小学校にゴザを持っていき映画鑑賞があった。記憶では巌窟王、ハワイの夜などを見たが、佐田啓二さんと岸恵子さんのロマンスの映画でした。
参加した私が年も近く、懐かしい話で久々に子供のころにタイムスリップした時間でした。
引用元(FBページ)
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