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空堀episode4

空堀商店街を松屋町方面に下ったところにある「からほりさろん」は、今や空堀にはなくてはならない存在になっている。

運営する、高齢者外出介助の会 代表のNさんは、個人的なつながりで、色々とお世話になったり遊んでいる、年配の友人の1人である。
Nさん自身は、幼少期に空堀商店街の東側で暮らしており、現在は公園になっている「桃園小学校」を卒業し、「上町中学校」を卒業している。高校生ぐらいのころに郊外へ引っ越し、その後大阪市内で居住することはなかったとか。

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桃園小学校の卒業アルバムより


高齢者外出介助の会とは

「高齢者外出介助の会」は、1994年に任意団体として設立された。その名の通り「高齢者」の「外出」を「介助する」会として、高齢者のお出かけボランティア活動を中心に行うための団体であった。
2000年に空堀で事務所を借りるまではあちこち間借りをして活動していた。
最初は土佐堀にある大阪YMCAの一部、日本橋のシルバーボランティアセンター、谷七の大阪府社会福祉協議会ボランティアルームを経て、空堀へと。

ちょうど現在の事務所に移転するときにNPO法ができ、事務所を借りるようになったことや任意団体だと周りに迷惑がかかるかもしれない、とい懸念があり、年度の報告作成が面倒だけど法人化することにした。

商店街に事務所を構えよう

最後に間借りしていた谷町7丁目の大阪府社会福祉協議会ボランティアルームが狭かったこともあり、当時、応援してくれていた朝日新聞の事務局長から資金援助をすると言われ、事務所を探すことになった。
同じような活動をしている団体で商店街の一角に事務所を構えているところがあったので、それを参考に、商店街にある物件を探すことになった。
最初は天神橋筋商店街で探していたが予算が合わず、物件探しも難航していたそう。ある時、知り合いの人から「商店街やったらこの近く(谷町7丁目)に空堀商店街があるよ」と言われた。

空堀の商店街で物件探し

Nさん自身、幼少期に空堀界隈で育っていたはずなのに、その時まで、すぐ近くの空堀商店街の存在を忘れていた。
そして、2000年に空堀どーり商店街の小さな事務所ビルの3階の事務所を借りることになった。ここが初めての自前の事務所だった。商店街からビルの階段にアクセスできる建物だったので、商店街と繋がっている感じがしたのでそこに決めた。
(実は、空堀で探し始めたころに事務所を借りる資金援助の約束が破棄になったけれど、間借りしている所から出て事務所を借りる、という気運が高まっていたので事務所を探すことになったそう)

そして「からほりさろん」の誕生

最初に借りていた事務所は、利用する高齢者の方から「階段を上がるのがつらい」と言われたこともあり、1階の事務所を探し、2003年に現在の場所に移転した。事務所が広く、スペースが余っていてもったいなかったので、道路側のスペースを「からほりさろん」として運営をすることになり、現在に至る。いつもふいに行くとどなたかにお会いできる場所。

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空堀のまちの人とのかかわり

事務所を構えた2000年に、地域の民生委員に挨拶に行ったら、「ネットワーク委員が機能しているから別に来てくれなくてもいい」「ボランティアが来たけどそんなのはいらない」と言われていた。
当時は、ボランティアがどういったものか、というそもそも論が理解されていなかった 。空堀のまちの人たちの「ヨソモノ意識」が強かったという印象がある。
しかし、時代は巡り、空堀に来た約20年前には「いらない」と言われていた存在だった団体が、最近では「なくなったら困る」「食事会に親を行かせてもよいか」を声をかけられるようになった。
「さろん」という場所を作ったことで、会の存在が大きくなったんだと思う。

活動資金を稼ぐためのバザー品も最初の入口の一歩になっているのかも。(寄付、助成金なども活用して、どうにかこうにか活動を継続されている)
からほりさろんほ、高齢者だけでなく、地元の人や若者、子育てママと子どもがひょっこりお邪魔できる、そんな場所。

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からほりまちアートとの関わり

少し、話は事務所を借りたときの話題に戻るけれど…
からほりまちアートの前身の“からほりアートイベント”を開催する2001年にからほり倶楽部の代表のRさん、Nさんが事務所を訪ねて来られ、出展を依頼された。
出展者として、絵を2枚ほど飾り、まちを使ったイベントだから散策して歩くとのどが渇くだろうと思い、公園でお茶を出していた。
その時、現在の理事となっているYさん夫婦と出会い、法人化するときに理事になってもらった。からほりまちアートに関わっての一番の収穫だった!

3回目以降は出展には関わらず、来場者としてまちを歩いていた「からほりまちアート」は地域を上手に使っているけど、地域を巻き込んでいなかった。若い人が勝手にやっている印象を持っていた。
空堀商店街でやろうとしている「ぶら空堀まつり」(2011年~3年ほど開催)は、からほりまちアートでたくさん人が来てくれていて、終わっても来続けてもらおうという機運の高まりになった。

からほりまちアート以降、まちに来る人に対する態度も変わったと思う。ヨソモノ意識が薄れた感じがする。まちの空気が変わったのではないか。からほりまちアートが終わっても知らん顔せずに何かしないとという気持ちにさせたのはからほりまちアートの財産だと思う、と言ってくださった。

現在も続けている「からほり新聞」

からほり新聞はいまやなくてはならないまちのメディアになっている。
からほりまちアートや長屋再生などで、空堀のまちが新聞、テレビなどのマスメディアで取り上げられるようになった。ところが、来訪者のゴミ問題や知らない人が路地に入って家を覗かれる、など、これまで路地に暮らす人は鍵をかけていなかったこともあり「ぶっそうになった」と訴えられるようになった。いっぽうで商店街の人(特に代替わりした店主)は人が来てほしいという思いがある。
それぞれの思いや意見が集まるのは、からほりさろん、という場所ならでは。
まちの情報や課題について、空堀に来る人にも、住んでいる人たち対してどちらでも読みやすい、読んでもらえるようなものを作りたいと思い、からほり新聞を作りはじめた。

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現在は2000部配布しており、空堀界隈のいろいろな場所で置いているが、遠方からも送ってほしいという声があり、読者の幅は広がっている。今では地域の人が楽しみにしてくれている新聞となってきたと思う。この新聞を発行しているおかげで知り合いが増えた、などNさんにとっても良いことが色々あるよう。
つい最近印刷機が壊れて新聞が発行できず困っているとのこと。困った!

あともう少し??

いつも高齢者外出介助の会のブログを読むと「お金がないから続けられないかも」と書いているのが印象的で、それを書いたらどこかから寄付をもらえたり、申請していた助成金が下りたりすることがあるそう。
とはいえ、こんな正直なこと、ブログで全世界に発信するなんてすごいと思っている(笑)

Nさん、先日お誕生日で現在78歳!もうすぐ80歳なのに、ワインもガッツリ飲むし若々しい人。

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piyoko
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