自分の位置を見る目を取得したがまた閉じてしまいそうで怖い
目を覚ました私を引き止める温まった羽毛布団。
ティーバッグで簡易的に煮出せる紅茶。
運転免許。
Macのキーボードを打ち込む手と、生産されていくレポートの文字。
水槽の中を優雅に泳ぐゴールデン・エンゼルフィッシュ。
机の引き出しの中から取り出すエステの会員証。
湯の張られた湯船。
私が今日を生きる上で出会ったものたち。
ほんの一部ではあるが、これらのものは資本主義を首尾良く生き延びてきた両親の財産だ。
もちろん、私自身も。
ポン・ジュノ(봉준호)監督の映画『パラサイト 半地下の家族』が、頭にこびりついて離れない。
この映画を観て多くの人が最初に確認するのは、自分は今どの位置にいるか、ということであろう。それほどまでに、この映画が提示する主題は、私たちの生活、人生と密着しているものだから。
今日、地元の大型スーパーが格安ディスカウントスーパーにリニューアルするというニュースを耳にした。幼少期から慣れ親しんだ場所が変わってしまうことに寂しさを覚える、と同時に脳裏に浮かんだのが、ジャージ姿でたむろすヤンキーたちや、喧嘩腰に店員に絡むおじさんの画だった。嫌悪感を抱いた、というのが私の率直な感想だ。
価格の安いところの治安が悪いというのは、あながち偏見ではないと思う。映画の中にもあったあるセリフにも、当事者の目線からそのことについて言及されていた。
大事なのは、悪い人間が低所得なのではなく、低所得だからこそ心に余裕など持てなくなってしまうということだ。
持つものと持たざるものの間には、圧倒的な壁が生じる。どちらか一方は他方を排他して、お互いが交わることはなくなってしまう。
格安スーパーに嫌悪感を感じ、多分地元にはもう戻らないだろうと呑気に思った私は、のちにそう思った自分自身に愕然とした。あまりにナチュラルに、私は人を排他していたのだ。まるで映画の中のパク・ヨンギョのように。
私は上流階級に属するものではない。だから、ディスカウント商品があれば買うし、今度リニューアルするお店にも幾度か訪れたことはある。だが、地元にそれができるのを受け付けないほどには、私は貧困していず、心にも余裕があるのだと気付かされた。これこそが、”私の位置”なのかと。
今回のリニューアルオープンは、若年層や、男性などの客足が増え、売り上げが伸びる見込みによるものらしい。消費社会に飲み込まれたいかにも典型的な考え方だ。
お金を増産し、利益を生む。
低所得者ほど搾り取られ、高所得者ほどどんどん裕福になっていく。
上を見上げては羨み、下を覗いてはほっと安堵する。
このような考え方に染まっている限り、私たちはどんどん格差が広がりつつある現代社会から抜け出せなくなっていくだろう。
お金という価値の幻想物に翻弄されて、私たちは一体何を生きているのだろうか。
映画を観て、考察できる余裕があって、それをインターネット上にあげることができる私は恵まれていることだけが、事実としてここにある。
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