粛々と、粛々と
昔から、ヘンなこだわりの強い性格であった。
周りの人が当たり前にやっていることでも、やる理由が納得できないと、身体が動かないことがよくある。
逆に、なんとかこの場のルールを理解しようとして、「よーし、こういうことだな?」と思って自信満々にやってみたら、大外しした、という経験もよくあった。一番思い出すのは、小学五年生の時に東京に引っ越してきた時の自己紹介である。あれが、「転校先に馴染じめない」と感じはじめた、最初の一手であった。
そんなこともあってか、周りの人に「千葉さんって生きづらそうですね」とよく言われる。数十分前とか、数時間前に会ったばかりの相手に言われたことも、何度かある。
そう言われることに対しては、もちろん「馬鹿にしやがって」という憤りの気持ちもある。しかし、実は、それほど嫌いではない。なんというか、「わかってくれるか!」という喜びの感情もあるからだ。
たぶん、「生きづらそう」という他者評価が、自己認識と合っている、ということなのだろう。
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勉強は、かなり得意な方だ。大学受験の時も、予備校に行くこともなく、現役で東京大学に合格した。
周りから、どうやって勉強してるの、と聞かれたことが何度かある。そのたびに、どう答えていいか迷った末、「納得できるまで覚えないこと」と答えていた。
私の体は、整理されていない物事や、構造化されていない物事を覚えられないらしく、そういったことを、整理されていないままに頭に詰め込もうとすると、気分がモヤモヤしてくる。
そのためか、他の知識とつながりの薄い情報はいつまでたっても覚えられない。人の顔や名前は全然覚えられない。自分の住所もよく忘れる。
例えるなら、私の体は、「納得できているか」を判定するセンサーが、他の人より高感度なのだと思う。勉強とは、今までの知識のネットワークの中に新しい知識を付け加えていくことだとすれば、私の場合、新しい知識を覚える時に、今までの知識や経験との間に矛盾があったり、きれいに構造化されてなかったりすると、どうにも知識のネットワークの中にうまく位置づけることができず、こぼれ落ちてしまう。頭がうまく受け付けてくれないのだ。なんとか、今までのネットワークの中で、新しい知識がハマる場所を模索し、自分の中で納得できる意味のつながりを見つけることで、やっと覚えることができる。
欠点も大きいが、ある意味では、受験勉強にはとても向いている体だと言える。私の体が満足するまで知識の整理に付き合う、ということだけ守れば、勝手に知識が体系化されて収納されていく。そして、一度体系づけられた知識はあまり忘れない。高校3年生になった時も、高1、高2でやった内容をだいたい覚えていた。「納得できないと覚えられない」という私の特徴には、私自身、生活の上で何度も困らされてきたが、だからこそ、納得するまで理解を諦めない、という姿勢が身についた。
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最近、「納得できなくてもとりあえず周りに合わせて動けるようになったこと」を褒められることが増えた。「成長したね!」なんて言われることもある。
社会生活をしてれば、当然、「納得できていなくても、とりあえず周りに合わせて動くこと」が必要になることはある。最近の自分は、曖昧さの高い状態で、他の人と共に働く状況がずっと続いていたので、ちょっとずつ環境に適応してきたのだろう。
しかし、「納得できなくてもとりあえず周りに合わせて動けるようになったこと」を、成長と呼ばれることに違和感がないかといえば、嘘になる。それは、裏を返せば、私の体が持つ"こだわり"が、"乗り越えられるべき欠点"として見られている、というふうにはならないだろうか。
もちろん、自らの"こだわり"だけに因われず、世の中には自分が理解できないような多様な価値観があることを理解し、様々な意見に対して寛容になること、オープンであることが、”大人になる”ということなのだ、という意見も分かる。というか、私自身、そのような価値観を支持している。だが・・・。
わたしを、わたしの人生を、今のここまで導いてきたのは、このワケの分からない"こだわり"なのだ。
このワケの分からない"こだわり"がなければ、社会学や哲学の勉強に励むこともなかっただろうし、心理やメンタルヘルスの学習をすることもなかっただろうし、今cotreeで働いていることもなかっただろうと思う。小学校、中学校の頃の私が、ちまちまと心理系の本を読み、勉強していた動機の一つは、身の回りの人との人のコミュニケーションがどういうルールや仕組みで行われているのか理解できず、それをどうやったら構造的に理解して納得できるのかを知りたかったからだ。身の回りで起きている「よくわからないこと」をなんとか理解して納得しようと進んできた結果、今わたしはこの場所に立っている。
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自分の中にある、このワケの分からない"こだわり"を、私はどう捉えたらいいのだろう、と考える。
この"こだわり"に苦しめられてきたことは数知れない。だが、これが今の私を作り上げてきたことも否定できない。アンビバレントな感情がある。
「千葉さんって生きづらそうですね」と言われることは嫌いではない。”生きづらそうに生きている”のが私の生き方だし、それが私だと思っている。多分私は、死ぬまでこの生きづらさと共に在るのだ。そうではない自分の姿が想像できないし、特に欲してもいない。
もちろん、仕事や生活の中で、自分に求められるものが変わっていき、周囲の求めに答えていく中で、自分が変わっていくことはあるだろう。だが、それは「結果として」自分が変わっていくのであって、自分が変わろうと望んで変わっているわけではない気がする。
こう書くと、変な奴だと思われるかもしれないが、私は、"自分のこだわりに振り回されている自分"が嫌いではないのだ。
私と、私の中の"こだわり"の関係は、結婚した夫婦の関係が10年、20年と歳を重ねるにつれて徐々に変わっていくように、時間と共に変わっていくのだと思う。ワガママな伴侶のような、自分の中の"こだわり"に振り回されながら、粛々と、粛々と生きていく。そんなイメージが、今の自分にはある。