"心を表現すること"に寄せる思索メモ
この前、何度かcotreeユーザ会で会ううちに仲良くなった五十嵐さんと、オフィス近くの餃子屋で飲んだ時に、「表現すること」について話した。
上の五十嵐さんの記事とは直接関係ないかもしれないが、「表現」は、「心のケア」の極めて根本的な構成要素だと、私は思う。
「表現」というものに対する想いを、まだちゃんと伝わる言葉にはなっていないかもしれないが、ポエム的に書いてみた。
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私は大学生の時に、現象学的看護研究という手法で卒業論文を書いていた。ざっくり言うと、「ケア」(≒看護)という営みを哲学的視点を用いて分析する、という手法である。その時に教わったのは、「ケア」という営みの根本は「看る」(≒見る)ことにあるということだ。英語のcareには、注目する、関心を払う、という意味がある。看ること、関心を払うこと、ケアの営みの根っこはそこにある。
ケアを生業とする者が、最初に身に着けるべき態度とは、相手の振る舞いや仕草、発言などを、「表現」として受け取ることではないだろうか、と思う。普段と異なる言動、食事の好みの変化、そういったものを、その人の体調やニーズの「表現」として受け取る、ということだ。
まして、「心」は目に見えない。目に見えるのは、その人の「身体」だけだ。私たちは、相手の「心」を、その人の身体の振る舞い(その人が書かれた文章やその人が話したことを含む)の向こう側に読み取るしかない。だから、「心」を扱う者は、一番最初に、相手の振る舞いや仕草、発言などを、「心の表現」として受け取ることを身につけるのではないか、と想う。
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しばしばドラマや漫画で、恐ろしい悪党だったはずの人間が、ずっと内に抱えて隠してきた「苦痛」や「つらさ」に共感して涙を流してくれたヒロインの姿を見た時に、コロッと改心する、というシーンがあるが、とても人間的なことだと思う。自らの行いを、「内に秘めた意図の表現」として受け止めてくれる人が現れた時、たとえその意図が実際には達成されなかったとしても、人はどこか「満足」するのではないだろうか。
私も、何度かそういう経験がある。一つは、大学の学生相談室でWAIS-Ⅲという発達障害の検査を受け、その結果を担当の人に説明してもらった時のことだ。「状況判断の能力が他の人の比べてかなり低いんですが、実際に話していると、奇異な感じを受けない。今まで、ずいぶんと工夫されて、頑張ってこられたんですね」と声をかけてもらった時、気持ちが溢れて耐えられなくなってしまい、その後10分くらい泣き続けていたことがある。ちゃんとした言葉にならずに、小さな声でただ「そうなんです」とだけ繰り返していた。ずっと、「普通に話せる人」になろうと努力してきた。その、誰にも見てもらえなかった努力を、認めてもらえた気がした。
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精神看護の教官が授業中に話したある話を思い出す。教官が精神科看護師として働いていた時、ある場所からずっと動かないでうずくまっている入院患者さんがいて、何も言わずにずっと横に座って、その重苦しい空気を一緒に感じていた、という。
「空気を一緒に感じていた」という表現がずっと印象に残っていて、時々その話を思い出して考えてしまう。横に座って何もせずにただ同じ空気を感じる、という行為は、一体なんなのだろうか。それは「ケア」なのだろうか。よく分からない。ケアというものについて考えると、悩むことや、分からないことだらけだ。それはどこか尊い営みのようにも感じるし、何の意味もない行為かもしれないとも感じる。
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「あなたが私の心をケアすること」と、「私が私の心を表現すること」は、分かち難く結びついている。それは、「心のケア」という一つの現象を成り立たせる、別々の側面、コインの裏表だ。心をケアする者は、相手の振る舞いを心の表現として受け取ることで、初めて相手の心に触れることができる。心をケアする者、相手の心に関心を寄せる者は、なんとかして、相手の振る舞いから、心を読み取ろうとする。そして、心のケアという現場において、ケアを受ける者は、たとえその気がなくても、己の心の表現者となっている。振る舞いの全てが、いつの間にか「表現」として読み取られてしまう。
セルフケアであっても、ケアする者、ケアされる者の関係は同じだ。私が私をケアする時、私は私の身体の不調、胸のざわざわ、普段はやらかさないミスなどを、己の心の表現として受け取る。
その流れで言えば、マインドフルな状態とは、心を表現する者になるだけでなく、私そのものが心の表現となっている状態と言えるかもしれない。心を感じることと、心を表現することの間に時間的なズレがなく、重なり合っている。私が身体を動かして心を表現するのではなく、身体の振る舞いがそのまま心の表現になっている。
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表現者になる、ということは、ある意味で、主体性の獲得でもある。入院して、何もやることがないときでも、私たちは表現者になることはできる。表現することは、do(する)とbe(である)の中間にある。誰かが私のことを表現として受け止めてくれる、ということは、表現するという行為の可能性を獲得することでもある。もしかしたら、街角に生えている木だって、たとえ枝一つ動かせないとしても、表現する者としての主体性を持つかもしれない。
誰かを(何かを)表現する者と捉える、ということは、その対象の表現者としての主体性を尊重する、ということでもあると思う。だから、表現することは、人の尊厳と結びついている。あらゆる行為の可能性が閉ざされた極限状態の中で、それでも表現者としての主体性は残る。表現は、能動性に依存しない、存在そのものによる世界への企てだ。
「心のケア」の活動が暴走し、本来の目的を離れ、人を受動的な存在へと貶める暴力的なものになってしまいそうなとき、それを防いでくれるものは、その人を表現者として尊重するという態度ではないだろうか。心のケアが正しくエンパワメントとして機能するための土台は、全ての人を表現者として尊重し、「表現」を大切に受け止めるという、その価値観ではないか、と私は思うのだ。
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この記事は、cotree advent note 39日目である。