アバターを着ることの意味が希薄になる世界へ バーチャルAV女優 Karinさんの事例②
筆者は、大学で質的分析を学んだ後、対人支援者に対するインタビュー調査を行い、その活動の背景にある考え方や理論を明らかにする分析を趣味で公開している者である。
この記事は、バーチャルAV女優であり、バーチャル風俗店X-Oasisのキャスト兼経営者でもあるKarinさんのインタビュー分析の2本目である。
前回のまとめ
今回の記事では、Karinさんが抱えている問題意識に対し、どうしてバーチャル風俗X-Oasisの活動が解決策となるのかを主な分析テーマとする。分析に入る前に、前回の記事で明らかにしたkarinさんの問題意識を振り返っておこう。
Karinさんは性別違和(Gender Dysphoria)の当事者である。Karinさんが問題視していたのは、<私みたいな、中途半端な人>、すなわち、自分の性別に対する違和感はあっても、違和感を解消するための"行動"ができない状況に置かれてしまった人であった。そして、現代の性別違和を抱える人が"行動"できない状況に追い込まれる原因は、性別越境のために自分の資産や生活のうちのどれだけを投げ打つことができるのか、それによってどれだけの成果を得られるのかという<コスパ>の問題にあることを示した。
分析テーマ1: "性別越境"の3つのルート
これを踏まえた上で、前回の最後に分析したインタビュー箇所から分析を再開しよう。ちなみに、前回は(中略)と記載していた箇所をいくつか復活させている。
「Karinさんと同じようなバックグラウンドを持っている人が仮に10人いた場合、ジェンダーアイデンティティとかも含めて自分のやりたい表現を実現して、表舞台に出てこれるのは、たぶん10人の中で1人とかだ」とkarinさんは語る。
前回の記事の[ブロックA]の語りの中でも、karinさんは「一人だけ勝手に救われてしまった、っていう意識がちょっとある」という語りがあった。この二つの語りに共通しているのは、どちらも「たまたま」救われただけで、再現性がないルートである、という点だ。
Karinさんには、「たまたま、自分一人だけが救われてしまった」ことへの反発があるようだ。それゆえ、Karinさんは「たまたま」ではない、再現性のある、誰もが利用できるルートの構築に関心を持っている。その回答として提出されるのが、「VTuberという装置」だ。Karinさんによれば、VTuberという装置は、既存のルートとは異なり、<コストのかかる部分>をスキップすることができるので、10人中10人が自己表現できる"ルート"となり得る。
今回の記事では、<私みたいな、中途半端な人>たちが選択しうる、性別越境のためのいくつかのルートを比較しながら、既存のルートにはどのような問題があるのか、なぜX-Oasisのような新しいルートが必要になるのかについて、Karinさんの語るロジックを追っていきたい。
<ニューハーフ>
さて、先の語りでも登場した<ニューハーフ>という単語について、歴史的な経緯を含め、少し追加で説明しておきたい。
歴史的には、ニューハーフは、劇場やクラブなどの商業世界において、主に使われてきた単語であり、自分が(元)身体男性であることを、商業的な"売り"とする人、というニュアンスを含む。
石井由香里氏によれば、特に1990年代に「性同一性障害」などの医療的な概念が登場する以前の日本において、ニューハーフに代表される商業世界は、性別に違和感を覚える人々が「生まれた時の性」とは異なるアイデンティティを生きられるルートとして機能していた。現代では、医療による"治療"が性別越境の主要ルートとして認識されているが、ひと昔までは、商業世界に入る道の方がむしろ主要ルートとして認識されていた。
ニューハーフは、自分が身体男性であることを、むしろ商業的な"売り"とすることで、(社会的なタブーである)異性装をすることを例外として許されていた。これは劇場やクラブといった特殊な空間でのみ許容されるルートではあったが、江戸時代から存在する性別越境のためのルートであった。この戦略を一言でまとめるなら、身体は男性であるにもかかわらず女性として振る舞っているという"ズレ"を、商業的な"売り"に変換することで、性別越境を受け入れさせる戦略と言えよう。
「身体的には男性なんだけど」という前提
<ニューハーフ>について背景知識を踏まえた上で、改めて[ブロックE]の語りを読み返すと、ここでテーマになっているのは「身体は男性である」という前提の扱い方だとわかる。
VTuberとして活動する場合、身体の性別について言及しなくてもコミュニケーションが可能だ。これは非常に当たり前の事実ではあるが、とても重要な論点である。Karinさんのように、身体の見た目が男性である人物が女性として見られたいと考える場合、対面の場面においては「身体的には男性なんだけど」という前提に触れないわけにはいかないからである。
コスプレイヤーは、身体的には男性であるにもかかわらず容姿が可愛い、ということを売りにできる。ニューハーフは、身体的には男性であるにもかかわらず女性らしい言動をしていることを売りにできる。「にもかかわらず」が「売り」になる状況であるがゆえに、受け手は相手が身体的には男性であることを織り込み済みでコミュニケーションを楽しむことができる。いわば、受け手は「身体的には男性であるにもかかわらず○○をやってる」という物語性込みでその場のコミュニケーションを消費しているのだ。
一方で、ネット上のコミュニケーションにおいては、互いのアバターしか見えていない状態が<スタートライン>であり、誰もがその状態からコミュニケーションを開始する。そのため、ネット上では、女性のアバターをまとえば、<普通に、一人の女性としてスタート>できる。Karinさんはこの点にVTuberという仕組みの可能性を見ている。
リアルの身体に言及せずに済むということは、性転換手術やホルモン注射などの、リアルの身体のメンテナンスに必要だったコストをすっ飛ばすことができるということでもある。アバターを纏うコストは、性転換手術やホルモン注射に比べれば遥かに低く、やり直しも効きやすい。<才能>や<容姿>といった、運が絡む要素に頼るところが少ない。アバター技術は「誰でも使える手段」だ。アバター技術を使えば、<コスパ>によって自己表現が阻まれていた10人中9人の人も、表舞台で自己表現をすることができるようになる。これがKarinさんの主張の骨子だろう。
Karinさんの2面戦略
さて、ここまで、VRアバター技術を用いることで、「身体的には男性なんだけど」という前提に触れずに済むという点について述べてきた。しかし、実際は、Karinさんは「身体的には男性なんだけど」という前提を出すかどうかを、ある程度、状況に合わせて使い分けている。
例えば、Karinさんは、noteや同人誌の中では「身体男性である」ということに言及している。しかし、FC2のライブチャット配信の中では言及しない、という立場を取っている。
以下は、なぜnoteの発信の内容をFC2の配信の中などでは言えないのか?について筆者が尋ねた場面である。
Karinさんは「身体的には男性なんだけどバーチャルAV女優をやっている」という自分の事情を<半数以上の人に共有されていない物語>と呼ぶ。(この<物語>は、ニューハーフルートにおける"売り"そのものであることは今まで述べてきた通りだ。)
KarinさんのFC2のライブ配信を観にきた<むっつりスケベたち>たちの多くは、Karinさんの事情は何も知らず、単にエッチそうな配信を観に来ただけであり、この物語を共有していない。そのため、このFC2ライブチャット配信の事例は「身体的には男性なんだけど」という前提に触れずとも女性として活動することをアバター技術が可能にした事例として肯定的に評価できるだろう。
一方で、すでに普通に女性としてライブ配信を行うことができているために、わざわざ「中身」について言及することは、<むっつりスケベ>たちに<幻滅>される"リスク"になるようだ。観客に幻滅されることは、AV女優としての売上に大きく影響するため、Karinさんにとって無視できない問題である。
"性別越境"の3つのルート
ここまでの分析を振り返っておこう。ここまで、性別違和の人が選択しうる性別越境のためのいくつかのルートを比較してきた。
最初に検討したルートは「医療ルート」である。性転換手術やホルモン注射によって、身体を"治療"し、身体の性を望む性に合わせる方法である。しかし、治療費が高いわりにリスクが大きいため、<コスパ>が行動を起こす上での壁となっていた。
次に検討したルートは「ニューハーフルート」である。身体は男性であるにもかかわらず、女性として振る舞っているという"ズレ"を、商業的な「売り」(=物語性)として変換することで、受け手に自然に受け入れさせるという戦略である。しかし、このルートを取るためには「身体的には男性なんだけど」という前提に触れないわけにはいかないという課題がある。
最後に、アバター技術が、オンライン上でアバター技術を用いてコミュニケーションを行うことで、そもそも身体の性別について言及しない、という新しいルートを生み出したことを述べた。このルートは、ひとまず「オンラインルート」と名付けておこう。このルートは、コストを低く抑えられる上に、リアルの身体の性に触れずに済む、という利点がある。一方で、「普通の女性」という立場でコミュニケーションをスタートしてしまうために、「実は身体は男性なんだけど」という事実を後から明かすことが難しくなる、という課題もあるようだ。
このように比較すると、オンラインルートは、ニューハーフルートに比べ、単に「身体的には男性なんだけど」という前提を出すタイミングを後回しにしているだけのようにも思える。しかし、Karinさんはこの<後回し>に意義があると考えているようだ。この点については、第三回以降でより深く分析していきたい。
分析テーマ2: なぜ性風俗産業なのか?
ここまでで、アバター技術が<コスパ>の問題をどのように解決するかについて明らかにしてきた。
とはいえ、単にVRアバターでコミュニケーションを取れる場を増やすことが目的ならば、わざわざ性風俗産業を選ぶ必要はないはずだ。なぜ活動場所として、普通のVTuberではなく、性風俗産業を選択したのだろうか?
第一回の最初に分析したインタビューの箇所を再度引用する。
<埋没志向>と<バ美肉>に注目する。Karinさんの理想として、<埋没志向>が出てきた。そして、<埋没志向>に反する事例として、バ美肉文化が提示されている。この二つの対比を追うことで、<埋没>という単語が意味するところを明らかにし、なぜ性風俗産業が選択されるのかを明らかにしてみよう。
「バーチャル美少女受肉」という物語が"売る"もの
「バ美肉」とは「バーチャル美少女受肉」の略である。VTuber界隈では、ねこますさんなど、中身がおじさんであるにもかかわらず、美少女のアバターを纏って活動するVTuberが多数存在しており、しばしば話題になる。
さて、このような「バ美肉おじさん」の文化は、多くの人に対し、生まれ持った身体に縛られずにより多様なキャラクターを生きることを可能にしている一方で、「身体的にはおじさんであるにもかかわらず○○をやってる」というような希少性・物語性込みで消費されることを前提としている点で、ニューハーフルートの延長上にある(言うまでもなく、バ美肉という単語自体が物語性を売りとしている単語だ)。
また、最初の一人は「バ美肉おじさん」という物珍しさで流行できるとしても、次の人はまた新しいコンテンツ性を発掘しなければならなくなる。実際「バ美肉おじさん」の中で、ねこますさんほどの知名度を獲得できたVTuberはそれほど多くはない。この路線で活動を続けるには、"売り"になるだけのコンテンツを常に供給し続けなければならない。「バ美肉VTuber」は生まれながらの<容姿>は必要とされないかもしれないが、別の<才能>を要求される狭き道であることは明らかである。
そもそも性別違和の当事者は、自分の身体が自分の理想とズレており、その"ズレ"に苦しんでいる。多くの性別違和の当事者にとって、この"ズレ"は向き合いたいものではないし、そのズレをまだ完全には受け入れられていないからこそ「性別違和」という名前を名乗っているはずだ。
自分が苦しめられている"ズレ"を大衆向けに(笑いながら)発信し続けなければならなくなる、という点で、多くの性別違和の当事者にとって、「バ美肉」のルートはなかなか酷な選択肢ではなかろうか。Karinさんにとって「バ美肉」は<安心>を実現するものではなく、Karinさんの目指す向きと<違う方向>に見えているようである。
<居る>ことを脅かすもの
<中途半端な人たちのセカンドチャンス〜VRの世界で作っていけたらな>という語りを読むと、Karinさんには<中途半端な人たち>は、しばしば、通常の社会の中で「安心して自分らしく居られる」場を獲得することに失敗している、という課題意識があることがわかる。(1回目に失敗していなければ<セカンドチャンス>は必要ないのだから。)なぜ、<中途半端な人たち>は「安心して自分らしく居る」ことが難しいのだろうか。
鶴田幸恵氏の論文「トランスジェンダーのパッシング実践と社会学的説明の齟齬カテゴリーの一瞥による判断と帰納的判断」 は、トランスジェンダー当事者の「パッシング実践」、すなわち、「普通の女性(男性)として見られようとする努力」についての論文である。「パッシング」は社会学における研究テーマの一つであり、50年以上の研究の蓄積がある。過去の研究を簡単に追うことで、上記の問いについての答えを素描しておこう。
「パッシング」研究における根本的なアイデアは、ある人が、男性か女性か判別のつかない中途半端な外見をしている場合、「この人は男と女のどちらなのか?」という注意が向けられてしまい、一方で、端的に男性か女性か判別できる外見をしている場合は、特に周囲から注意を向けられることなく、「普通に」振る舞うことができる、という点だろう。
鶴田幸恵氏は、「この人は男と女のどちらなのか?」という注意を向けられる経験(もしくは、そのような注意を向けられている可能性があること)自体が、トランスジェンダー当事者にとって、不安や居心地の悪さ、どう振舞えばいいのか分からなくなるといった影響をもたらすと述べている。論文中では、トランスジェンダー当事者の語りがいくつか紹介されている。
上のインタビューで出てきた「男なのか女なのかって推し測るような目線」のことを、【疑いの目】と呼称しておこう。
【疑いの目】は、リアルの場だけでなく、VRアバターを用いたコミュニケーションの場であっても向けられることがある。例えば、以下のYoutube動画は、ホロライブ所属の女性VTuberだった潤羽るしあが、配信中にファンからボイスチェンジャーを使っているのではないか(=元の声は男なのではないか)という疑いをかけられるシーンの切り抜きである。
Karinさんも、うまくあしらうことができているものの、FC2のライブチャット配信中にこのような「疑い」を向けられることがあるようだ。
【疑いの目】は、社会に広く存在しているありふれたものである。<中途半端な人たち>にとって、【疑いの目】は、<安心して自分らしく居られる>ことを脅かしてくるものであり、それゆえ、しばしば、通常の社会の中で「安心して自分らしく居られる」場を獲得することに失敗してしまう。
<埋没>
ここまでの議論で、<埋没>とは何か?という問いに答える準備が整った。
中途半端な外見をしている人たちは、しばしば、周囲から「この人は男と女のどちらなのか?」という注意を集めてしまう。この【疑いの目】を乗り越えるための手段として、「バ美肉」やニューハーフルートがあるが、自分が苦しめられている"ズレ"を大衆向けに(笑いながら)発信し続けなければならないという点で、性別違和の当事者にとって、<安心して自分らしく居られる>手段にはなりにくい。
このような「バ美肉」の戦略と対比すると、<埋没志向>とは「どこにでもいる普通の人」になろうとする戦略であると考えられるだろう。スペシャルな存在になろうとするのではなく、ありふれた普通の存在になることを目指す。特別な才能や優れた容姿がなくても、人目を惹くような"売り"(=希少性・物語性)がなくても、<仕事をするための最低限の能力とかマインドセットさえあれば>、その業界に所属し、普通に働いていくことができること。これがKarinさんの目指す<埋没>の姿だ ※1。
"売れる物語"がなくても、普通にアバターとして生きられる場
<埋没>という言葉の意味がわかったことで、<すごい大きいこのアダルトコンテンツっていう中に、埋没していく>という語りを読み解けるようになった。<大きい>という表現に着目しよう。
<埋没志向>とは、ありふれた普通の存在として目立たずに生きていくことを志向することだった。そのためには業界の「大きさ」が要求される。その「大きさ」を満たす業界の一つとして、アダルトコンテンツ業界・セックスワーク業界が提示される。
バーチャル風俗店X-Oasisは、登録しているキャストの中から好きな相手を選び、1回40-80分の「ライブデート」を申し込む、というサービスである。ユーザとしては、派遣型ファッションヘルス(いわゆるデリバリーヘルス)のオンライン版のように利用することができる。
タレント業としての側面が強いVTuber業界とは異なり、X-Oasisのような性風俗業はかならずしもタレント業とは言えない。派遣型も含めると、風営法の届出のあるファッションヘルスの営業所は国内に2万件近く存在する。その中のほとんどの人は、広く名前を知られているわけではない。性風俗業に携わる人間は国内に数十万人存在すると言われるが、業界の中には、「特別な才能や優れた容姿」がなくても、人目を惹くような「売り」(=希少性・物語性)がなくても、普通に働いている人がたくさんいることが予想される。
タレント業としての側面が強いVTuber業界ではこのようにはいかないだろう。VTuber業界は目立てなければ仕事にならない。人目を惹くような"売り"(=希少性・物語性)がなければ、「普通に働く」ことすら難しいのがタレント業だ。
Karinさんは、バーチャル風俗店X-Oasisを<あくまでも普通にアニメ調の女の子が、何かしらの理想のことをしてくれる場所>だと語る。
バーチャル風俗店X-Oasisはタレント業を目指さない。つまり、"有名人"とコミュニケーションを取れるという希少価値を売っているわけではない。
業界の<大きさ>が担保するものは交換可能性だ。業界が大きいとは、利用者のニーズが、多くの人が持っているようなありふれたニーズであること。また、提供しているサービスが、多くの人にとって普遍的に価値がある、ありふれたものであるということだ。
例えば、看護師の仕事は、患者とのある程度の信頼関係や面識が前提になってはいるものの、最低限の職業スキルさえあれば、他の看護師と交代しても成り立つ前提で作られている。同様に、セックスワークのキャストの仕事も、最低限のスキルさえあれば、他の人と交代しても成立するものとして作られている。Aさんを指名したにもかかわらず、Bさんがやってきた場合、ガッカリはするものの、サービスとして全く成立しないというほどではない。
アバターを着ることの意味が希薄になる世界へ
もう一度[ブロックH]を引用しよう。
現代では、まだ、VRアバターを使ってコミュニケーションを取ることには、言外の<意味>が出てしまう。<装っている>とは、すなわち「表面や外観を飾って、他のものに見せかける」(デジタル大辞林)という意味だ。アバターを使うことそのものが、VTuberへの「バ美肉疑惑」のように、わざわざ性別を装っているのではないか、という【疑いの目】を呼び集めてしまう。
しかし、<VRでのセックスワークが当たり前になればなるほど>、そのような意味合いは失われていく。アバターを着て活動する女優・風俗嬢という存在はまだまだ一般的ではないが、これが一般的になれば、アバターを着て仕事をしている人の存在は、何も目立つものではなく、当たり前のことになっていくだろう ※2。アダルトコンテンツ業界の「大きさ」を踏まえれば、その余地は十分にある、という目算がKarinさんにはあるようだ。
アダルトコンテンツ業界やセックスワーク業界は、そもそもとして<装う>ことが当たり前の世界だ。かつてニューハーフの"女装"が当たり前に受け入れられたように、商業世界は<装うこと>が特別な意味を持ちにくい。そのような土壌がある世界において、「アバターを着ること」の意味をより希薄化させ、"売れる物語"がなくても、普通にアバターとして生きられる場を作ること。それがKarinさんがX-Oasisで目指す世界なのだろう。
結語
今回の記事では、Karinさんが抱えている問題意識に対し、どうしてバーチャル風俗X-Oasisの活動が解決策となるのかを分析した。その結果として、以下のことを明らかにした。
オンライン上でアバター技術を用いてコミュニケーションを行うことで、「身体的には男性なんだけど」という前提に触れずにコミュニケーションが可能である
とはいえ、「アバターを着ること」そのものが<装っている>という意味を持つため、「この人は男と女のどちらなのか?」という【疑いの目】を集めてしまう
【疑いの目】は、<中途半端な人たち>が安心して自分らしく居ることを脅かす
Karinさんには、性風俗業界という大きな市場規模を持つ業界において、VRアバターを着て働く人を増やすことで、「アバターを着ること」の意味をより希薄化させ、"売れる物語"がなくても、普通にアバターとして生きていける場を社会に増やしていく、という構想がある
とはいえ、上記の構想が上手くいき、自分の身体に触れずに働ける場が増えていったとしても、Karinさんは、「第一印象のハック」には、いずれ<代償>が来る、と考えていたようだ。
次回の記事では、<後回し>にした問題が再び回帰してくるとしても、なぜ第一印象をハックすることが必要になのか、それにどのような価値があるのかについて、Karinさんの価値観を論じたい。そこでは、世間一般のKarinさんのイメージに反して、Karinさんの保守的な思想が垣間見えてくるはずだ。
※1 今回Karinさんのインタビューを行うことになったきっかけは、Karinさんが、millnaさん(筆者が以前インタビューをした人)の大ファンであり、そのインタビューを読んでくれたからだった。
millnaさんも、Karinさんも「生まれ持った身体に自由を制約されてしまうことに違和感を抱いている」点や「技術によって生まれ持った身体性を乗り越えていく」という志向性は、非常によく似ている。しかし「生まれ持った身体を乗り越えた先で、何を目指すのか」という点では、millnaさんとKarinさんはほぼ真逆の志向性を持っている。
millnaさんは、自分にとって自分は「スペシャルな存在」であるにもかかわらず、他人から見た自分は、駅のホームで電車に乗り込む大量の人のような、背景に【埋もれ】てしまう、どうでもいい、いくらでもいる他人の一人でしかないことに課題感を持ち、誰もが【オリジナルでスペシャルな存在】であるための【自己表現】の方法を模索する中で、Vtuberのアバター作成を含めたファッションデザイナーとしての活動を行っていた。
一方で、Karinさんは、Vtuberなどのアバター技術を、性自認と異なる身体を持つ人が「どこにでもいる普通の人」として社会に埋没するための装置として見なしている。<私みたいな、中途半端な人>は、社会において「異質な」存在であるために、望まずして「目立って」しまう。望まずして目立ってしまう<中途半端>な人たちが、埋没して生きられる場所を作ることが、Karinさんの実践のゴールになっている。
millnaさんは、人が望まずして埋もれてしまうことに課題感がある一方で、Karinさんが人が望まずして目立ってしまうことに課題感がある、という点で、非常に対極的である。
※2 ここには、フランスの思想家ジャン・ボードリヤールの「シュミラークル」の議論がほぼそのまま当てはまるだろう。ボードリヤールは著書『シミュラークルとシミュレーション』において、「シミュラークル」(=表象)が広がることによって、「実在」と「空想」の差異がなし崩しになっていくと説いた。例えば、1万円札(紙幣)は、元々は金との交換券として登場したが、いつの間にか、交換券でしかなかった紙そのものが価値を持つようになっている。これと同様、アバターは今はまだ「身体の表象」でしかないが、アバターの利用が広がれば、アバター(=身体の表象)と現実の身体の境界がゆるやかになっていくと考えられる。