"態度"と心のケアに寄せる思索メモ
以前、"表現"に関する記事を書いた。
「心」は目に見えない。目に見えるのは、その人の「身体」だけだ。私たちは、相手の「心」を、その人の身体の振る舞い(その人が書かれた文章やその人が話したことを含む)の向こう側に読み取るしかない。だから、「心」を扱う者は、一番最初に、相手の振る舞いや仕草、発言などを、「心の表現」として受け取ることを身につけるのではないか、と想う。
心をケアすること、つまり、心を見ることとは、どのような営みなのだろう。前回の記事では、見られる側(=表現する側)に焦点を当てて記事を書いたが、今回の記事では、見る側(=相手の心の表現を受け取り、相手の心に触れようとする側)の観点で考えてみたい。
"態度"=相手のどんな側面に関心を寄せるのか
心をケアする者、例えば、カウンセラーなどの対人支援職は、しばしば、クライアントに対して"全人的な"関心を寄せることを期待される。"全人的"とは、ひとりの人間には多様な側面があるという前提に立ち、周りの目線を気にして普段は表に出せない側面や、本人でも気づいていないような側面にも関心を持つということだ。しかし、あまり知られていないことだが、何を"全人的な"関心と考えるかは、実はカウンセラーひとりひとりによって異なるのではないか、と私は考えている。
最近、仕事の一貫で、cotreeのカウンセラーやコーチへ、ヒアリングを行なっているのだが、ヒアリングの中で、カウンセラーやコーチ一人一人ごとに、人を見る"態度"が大きく異なるのではないか、という仮説が立ってきた。
ここで言う、"態度"とは、相手が心の中に何を持っていると信じるのか、相手のどんな側面に関心を寄せ続けるのか、ということである。そして、その態度の違いが、得意とする対人支援のあり方に深く深く関わっており、ひとつひとつの声かけや質問の仕方における土台となっているのだ。
藤田カウンセラーと遠山カウンセラーのヒアリング
私がヒアリングした藤田カウンセラー、遠山カウンセラーが記事を書いてくれていた。お二方とも、ヒアリングした時に伺った内容の一部を記事として書いてくださっている。
藤田カウンセラーの話を聞いて、私が一番印象に残ったことは、「答えは必ず本人の中にある」「望ましい変化のためのカギは、全て本人の存在の中に備わっている」という態度でクライアントに関わる、という信念の強さだった。相手がいかにつらい状況におかれていようと、どれだけ状況に振り回され、打ちひしがれている状態にあっても、それでも、その人の中に力が眠っていることを信じ、その人のひとつひとつの発言や振る舞いから、その人の中にある力を読み取り、その人が持つ想像力や意欲に関心を寄せ続けるという態度だ。
先生は、「答えは必ず本人の中にある」「望ましい変化のためのカギは、全て本人の存在の中に備わっている」という前提に立っていました。そして不思議なことに、先生がそういう前提でいるので、「必ず答えやカギが見つかる」のです。「必ず」です。カウンセラーがどういう前提に立っているか、そこから既に、カウンセリングのプロセスはスタートしているのでした。
一方で、遠山カウンセラーは、日常の中で感じるモヤモヤ、つらさ、悲しみ、いらだち、そういった嫌な気持ちひとつひとつに目を向け、丁寧に受け止めようとする。人間を、しばしば自分の感情やつらい状況に振り回され、自分の気持ちを見失ったりする存在として捉えている。たとえ、つらさや悲しみが言葉としてなかなか出てこない人であっても、それでも、人間である以上、うまくいかないことや泣きたくなることがあるのが当然のことだと信じ、それらの悲しみやいらだち、ひとつひとつを丁寧に受け止めていこうとする態度に貫かれている。
人が、つらい...話を聴いてほしいと思う時は、日常の中にゴロゴロ転がっているものです。
人は生きていると、色々なことがおきますね。
大変なことは山ほどある、うまくいかないことも嫌なことも否応なしに襲ってきます。
誰だって、泣きたいときはあります。消えちゃいたいくらいにつらいこともあるものです。
関心を寄せること、存在を認めること
私が大学で学んできた、ベナーという看護理論家は、対人支援における"関心"の重要性を強調し、ケアとは関心を寄せることだ、と主張している。
"何か"に関心を寄せる、ということは、その"何か"の存在を認める、ということでもある。心は目に見えない。気持ちや感情は、自分や他者から関心を向けられた時に、初めて存在が認められるものだ。
だから、他者の心の中の"何か"に関心を寄せることは、一見、能動的な行為を何もしていないように見えて、その場にいる人たちに、大きな力を与えることがある。
自分の中に問題を解決する力があることを認められていない人の内部にある、"問題を解決する力"に関心を寄せ、その存在を認めること。
自分の中のつらさや悲しみを認められないでいる人の中にある、"未だ表現されないモヤモヤや悲しみ"に関心を寄せ、その存在を認めること。
他者が、あなたの振る舞いを"表現"として捉え、"表現"の中に、あなたの心を見出すこと。それは、怒りや反発、喜び、その他様々な感情を伴う、激烈な体験となることがあるのではないか。
信じて、そっとそばにいること
藤田カウンセラーのカウンセリングを受けているcotreeユーザーの方が、noteの記事を書いて下さっていて、嬉しく読ませてもらった。
この方は、藤田さんの記事の『「必ず答えやカギが見つかる」のです。「必ず」です。』という言葉に対し、最初は以下のように感じた、という。
思ったのは、
必ず?100%ってこと?絶対ってこと?
いやいや、そんなのありえない。
そして、
イライラが湧いてきて、
あくまで理想でしょ、綺麗事に過ぎない、無責任なこと言うな!
と、怒りに支配されていた。
ムカついていた。
僕はいつも自分がお世話になっているカウンセラーさんに一方的に腹を立てていた。
こういうことを書くと同僚や社長に怒られそうなのだけど、私は「カウンセラーにムカつく」ことはとても自然なことだと思っている。
なぜかというと、カウンセラーは、しばしば、自分が存在を認めたくない部分や、自分が気づいていなかった部分に関心を寄せてくるからだ。
この記事を書いたcotreeユーザの方も、記事の後半で以下のように書いている。
腹を立てていたのは、
カウンセラーさんに対してじゃなく、自分に対してだったんだ。
僕はいまだに自分の答えを見つけられていない。
そんな自分が哀しかった、惨めだった、恥ずかしかった。
この記事を書いてくださった方の実際の気持ちがどうだったのか、私には文章から推測するしかない。
だから、この方が当てはまるかはわからないが、一般に、「自分に答えがある」と認めるということは、一方で、今の状況が他人のせいではなく「自分の中に答えがあるにも関わらず、まだ見つけられていない自分」のせいだ、と受け止めることとセットになってしまう場合がある、と思う。
僕が心が安まるのは、
哀しみを充分に受け入れるまで、
自分を信じてそっとそばにいてくれることだと思った。
だから、「自分に答えがある」ということを認めるために、自分を支えてくれる他者を必要とする時があるのではないだろうか。希望は、悲しみと同じところにある。「自分に答えがある」ことを受け入れることは、ただ悲しくて苦しいだけではなくて、その先に希望が待っていると、共に信じてくれる人がいることは、その人の助けになるはずだ、と私は信じている。
対立する心の存在を認め、「それでも」、語ること
心をケアする者の"態度"は、ケアされる者の内側、様々な気持ちや側面が渦巻く中にある"何か"に焦点を当て、その"何か"を活性化させる。
この"態度"は、しばしば「それでも、あなたの中には○○があるはずだ」という形式をとる。そして、「それでも」というのが極めて大事だ、と思う。
なぜなら、実際にケアを受けていると、自分の心の中に、初めに抱いていた感情や欲望だけでなく、それと対立する感情や欲望も見つかるからだ。
人の心の中は、いつだって、矛盾する感情や欲望が渦巻いている。やりたいと願う一方では、やりたくない気持ちがある。悲しい気持ちがある一方で、自分の中の悲しみを見たくない気持ちがある。自分に力があると信じる一方で、自分の力を抱えきれない気持ちがある。
そして、過酷な状況の中におかれている時、自分の中のある側面や感情は、しばしば他の対立する側面や感情に押しやられ、居場所を失い、しぼんでいく。例えば、子育て中のお母さんは、子供を可愛がることを求められ、自分の中にある子供に苛立つ気持ちを認められなくなることがあるという。頑張らなきゃいけない状況、泣き言を言ってられない時の中で、自分の悲しみに向き合えなくなる時もある。
それでも、遠山カウンセラーは以下の態度を貫く、という。
誰だって、泣きたいときはあります。消えちゃいたいくらいにつらいこともあるものです。
子供のことを愛していても、それでも、子供に対してイラついてしまうことはある。頑張らなきゃいけない状況でも、悲しくなることはある。
それとは異なる別の感情があっても、ままならない状況があっても、それでも、あなたの中の○○を否定することにはならないのだと信じること、対立するそれぞれの心の側面がともに存在し得ることを信じ、語りを押し進めること、その言葉が出てくることを信じて待つこと、それがとても大事なことだ、と私は思うのだ。
分かり合えなくても、それでも、表現する力を信じること
前の記事で、"ただ共にいて、空気を一緒に感じる"という実践について書いた。
精神看護の教官が授業中に話したある話を思い出す。教官が精神科看護師として働いていた時、ある場所からずっと動かないでうずくまっている入院患者さんがいて、何も言わずにずっと横に座って、その重苦しい空気を一緒に感じていた、という。
”重苦しい空気"を一緒に感じる、という実践は、その人の中にある悲しみ、苦しみ、それらを受け止めようと試行錯誤する、看護師の実践だと解釈することができる。本当にその人が苦しんでいるかどうかは、周りからは分からない。だからこそ、看護師は、その人の悲しみ、苦しみに触れるためには、その"表現"を受け取るしかない。
コミュニケーションには、いつだって限界がある。私たちは、全ての気持ちを伝えることはできない。
ある場所からずっと動かないでうずくまっている、ということを、「心の表現」と捉えることは、適切なのだろうか。どうなのか、私には分からない。
だから、これは、看護師による、うずくまっている入院患者さんへの「私はこのように受け止めてみたよ」という"投げかけ"でもあるのだと思う。「じっとうずくまっているあなたの姿に、私は表現したいものを受け取ったよ」という"投げかけ"だ。
"心のケア"は、いつだってそういうものだと思う。
「心」は目に見えない。目に見えるのは、その人の「身体」だけだ。それでも、私たちは、相手の「心」の中に、"何か"を読み取る。そこに"何か"があることを信じ、受け止め、投げかける。それが"心のケア"だ。だから、相手が心の中に何を持っていると信じるか、という"態度"が、"心のケア"の根本的な要素だと思うのだ。
ー この人は、どのような"態度"で、私を受け止めてくれるのだろうか?
心のケアに関わる者は、いつも、この問いを突きつけられている。
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※ この記事で書いたことは理念形だ。つまり、かなりの割合で現実を無視しており、実際はうまくいかないことも多い。藤田カウンセラーと遠山カウンセラーの話も、私へのヒアリングなどの場で語ったことであって、お二人がひとりひとりのクライアントと向き合っている時は、もっと多様な態度に持っており、もっと多様な実践を行なっているだろう。
"態度"が心のケアにおいて重要である、という観点は、1対1の支援に限らず、コミュニティ運営や、はたまたビジネスの場においても、重要であると思う。それはまたいずれ記事にしたい。