![推しのアーティスト語らせて](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/16464596/rectangle_large_type_2_18b8d7a02a57ec8606525005c5fa82a8.png?width=1200)
新しいのに何故か懐かしい。
米津玄師さんの曲は、新しいのにどこか懐かしい。
そんな話を語らせてほしい。
私が、かの有名な「米津玄師」というアーティストと出会ったのは、17歳になったちょうどその頃。アルバム「Bremen」がリリースされた頃だった。
友人が部活帰りにタワレコに行くというのでついて行くことにした。私は一度もタワレコに行ったことが無かったのだ。何を買いに行くかなど全く気にせずただ興味をもってついて行っただけだった。
「Bremen」の初回限定盤を買いに行った友人の買い物に付き添ったことが私の運命を変えたといっても過言ではないのかもしれない。
その出会いは衝撃的だった。
「あたしはゆうれい」を初めて聞いたとき、何故こんなに懐かしいのだろうと驚いた。視聴用のヘッドホンから聞こえるメロディに、初めて聞いたはずのメロディに、こんなにも懐かしさを覚えるなんて。
その後、駅前の花壇に座って友人から他の曲も聞かせてもらった。
「アイネクライネ」を聞いた。まただ。
何故こんなに懐かしいのか。音がすっと入ってくるのか。不思議で仕方がなくて、惹きつけられた。
特に「アイネクライネ」には、どこかクラシック音楽を聞いているときのような懐かしさを覚えたような気がする。初めて聞いたときに感じた懐かしさというのは、もはや聞きなれてしまった今となっては思い出しにくく、気がするとしか言えないことがもどかしい。
よくは分からないけれど、きっと米津さんは、本当に色々な曲を聞いてきたんだろうと思う。勉強してきたのだろう、といったらまた薄っぺらい表現になってしまうのかもしれないな。
先人の礎の上に立っているのだ、今まで続いてきた道から地続きでやってきた音楽なのだ、という風に思う。
米津さんはすごい。
なんで自分はこんな月並みなことしか言えないのだろうと語彙力の無さを呪うけど、本当にすごい。
絵を描く。
動画をつくる。
音をつくり、
詩をつくる。
歌う。
踊る。
こんなに何でもできる人などいるのだろうか、と驚きを隠せない。
これがあの統一された世界観につながっているのだろうか。
先ほどからずっと述べているとおり、メロディは本当にとても懐かしい。すっと馴染んでくる音だ。
しかし、歌詞は初見(初聞)ではなんて言っているのか分からないこともあるような、なかなか不思議な組み合わせが多かった。
「ちょっと病弱なセブンティーン」とか、最初は何だろうと思ったし、今も何だか分からない。きっと色々な人が解釈をしているから、それを見れば分かるかもしれないが、やっぱり私には分からない。
分からないけど好き。
だけど、そんな「わけのわからない」言葉の中に、突然、心に刺さる言葉が混じっているのだ。
なんて心臓に悪いんだ。
「自分嫌いのあなたのことを愛する僕も嫌いなの?」
(「WOODEN DOLL」より)
特にこの曲には参った。「WOODEN DOLL」だ。
どれもこれもが心にぐさぐさと刺さってくるのだ。
傷つくくらいなら、先に自分で自分を否定してしまった方がいい。そんな風に無意識に思ってはいなかったか。自分に問いかけた。
自虐的に発する言葉は、防衛のためだったのか、と振り返って気づいた。
「目の前の僕をちゃんと見つめてよ」という曲中最後の歌詞には、切実なものを感じた。
自分を軽んじることは、自分を大切に思ってくれている人をも軽んじることになるのだということを、切実なものとして感じた。
本当にこの曲には参ったなぁ。
「愛は永遠」って誰かの誰かの誰かが言った。
それがもし本当なら、いつまで苦しめばいいの?
(「シンデレラグレイ」より)
この歌詞に、はっとした。
両想いのふたりの愛が永遠なら、片想いするひとりの片想いは永遠に終わらない。振り返ってもらえる日は来ない。
「愛は永遠」という言葉へ幸せな印象しかもっていなかった自分に、その裏にあるかもしれない苦しみを教えてくれたのは、米津さんの歌詞だった。
すっと入ってくるメロディ、心に刺さる言葉。
曲の物語を彩る繊細な絵。
ただの曲としてではない、耳で、心で、目で、色々な感覚から総合的に魅了されているのだと感じる。
何て魅力的なんだろう。