続・いま…仙水編がやばい!
と言うわけで、原稿期間に入っておりだいぶ期間が空いてしまったわけだが、いまだに拗らせている90年代…
前回の記事で「仙水編は少年漫画を装った何か別物である」と書いたわけだが何がどう別物なのかを自分なりに述べていこうと思う。
かなりざっくりと幽遊白書を振り返ってみると
人間界を守るため、人間に悪さをする妖怪を倒したり更生させたりするのが霊界探偵である主人公・幽助の仕事であり、それに協賛する仲間が桑原や蔵馬や飛影といったレギュラーメンバーなのである。
要は主人公たちの敵は「悪い妖怪」だったわけだが…
仙水編は敵が妖怪ではない。
そう!仙水たちは特殊能力こそ持ってはいるがれっきとした人間なのである!
この点がまずそれまでの幽遊白書と異なる点であろう。
では本来、幽助達が守るべき存在である人間が何故敵になったのか?
幽助グループと仙水グループは何が違うのか?
仙水グループを見てみると…
御手洗は学校でいじめられっ子。
天沼は両親が共働きで家庭の愛情が薄い。
巻原(グルメ)・神谷と刃霧のバックグラウンドはよくわからないが、なんとなく社会に馴染めないタイプなんだろうと思う。
要は社会に馴染めず、寄る辺なさを感じながら日々鬱々と過ごしている“声なき不満の民”で構成されている。
そしてそんな“声なき不満の民”の前に現れたのが世紀末リーダー・仙水なのである!!!!
仙水が巧みなのは、御手洗達“声なき不満の民”のもやもやした感情に“理由”を与えた点にあるように思う。
仙水が与えた“理由”それはーー!?
仙水は「声なき不満の民」がもやもやする理由に対して『黒の章』というビデオテープを観せて巧みに洗脳していくのだ。
*黒の章とは…霊界の極秘資料で、人間の悪しき部分を何万時間にも及んで収録したビデオテープ
そして黒の章を観て洗脳された「声なき不満の民」は「自分たちがもやもやしていたのは人間が醜いからだ!皆殺しにしなくちゃ!」「人間を皆殺しにすることこそが正義」と思い込んでしまうのである。
自分も含めて人間皆殺しを掲げているあたり、殉教者的な美学すら見出しているようにも感じる…
こうして「声なき不満の民 」は「仙水グループ」として「醜い人間」という共通の敵(目的)を得て一致団結してしまったわけだが…
ここで思うのは共通の敵を以ってして団結するって意味では幽助グループも一緒だよな…と言う点。
幽助グループの敵は悪い妖怪
仙水グループの敵は悪い人間
両者は本当にそっくりなのである。(リーダーは新旧霊界探偵だしね)
敵が妖怪か人間かの違いだけで、グループの結束理由は「共通の敵」なのである。
両者の違いはなんなのだろうか?
私は思うに、幽助グループには闘い以外の場所で守るべき日常(蛍子や静流、不良グループの舎弟etc)をメンバーそれぞれが自立して持っているのに対し、仙水グループのメンバーには守るべき日常が無いように感じた。
(仙水自身も幼少期から高い霊力のせいで妖怪に狙われ続けの闘いこそが日常だしね)
御手洗が求めた友達
天沼が求めた家庭
神谷や刃霧が求めた自分の居場所
仙水グループメンバーは自分たちが本当に欲しかったであろう“守るべき日常”が手に入らないのを“人間の醜さ故”として、そしてその寄る辺なさを和らげる依り代を仙水に見出したのではなかろうか?
幽助グループと違って、仙水グループはかなり仙水に依存しまくっているようにも感じる。
そして守るべき日常が無い上に、依存体質からこそ、仙水グループは目的に向かってどんどん先鋭化してしまったのではないだろうか?ブレーキが効かないって言う感じで…
でもさ、そんな依存体質のグループメンバーを抱えているのに、仙水自体はメンバーのことを道具としか思ってないあたり…悲しいですね。
「すべての人に墓を掘る。俺たち七人で墓を掘る」
って仙水のセリフも当初は仙水グループの七人を指しているのかと思ったが、後々仙水のパートナーである妖怪・樹から仙水の中にいる人格七人を指していることが明かされるし、仙水にとってグループメンバーは魔界の穴を完成させるまで幽助グループの足止めをしておく駒(樹は穴を開ける担当)でしかなく、終始、仙水一人で自己完結してる点、仙水の狂気が尖散らしている感じがする。
では、そんな狂気の男の真の目的は何か?
『黒の章』とか使って「醜い人間を皆殺しにするためだ!」とか言って大義名分を与えてメンバーを散々煽っておいた割に、仙水の目的は「かつて殺した妖怪に、自身が殺されたい」っていう要は「死に場所を探してた」的なものすごい個人的な理由なのである!!!
すごい!ひどい!!どんだけトラブルメーカーだよ!と思うわけだが、最終的に仙水は見事本懐を遂げる。
魔界に渡った仙水を追って、幽助グループも魔界入りして仙水とバトルになるわけだが、最初は劣勢だった幽助の身に雷禅(幽助の魔界に置けるご先祖様)が乗り移り、仙水はあっけなくやられてしまうのだ。
物語的には敵である仙水が負けて、人間界は救われたので幽助たちの勝利であるが、なんとも腑に落ちない勝利である。
むしろ本懐を遂げたという点で仙水の一人勝ちな感じもする。
仙水編のエピローグが秀逸で、一連の事件が終わった後の動向が描かれるのだが、天沼と御手洗は日常生活を手に入れるからなんかハッピーエンドな感じなんだけど、事件終了直後の朝もや烟る森の中で、刃霧に「これからどうする?」と聞かれて神谷が放ったセリフ
「さあな…この霧の中を歩くようなものだ…」
とか、なんか不穏な感じ。
さらに、一度は日常生活に戻ろうとした刃霧も、河原で死んだ犬を見て動物をいじめた奴らを狩りに行く発言した後失踪するなど、日常を手に入れた人もいれば、やっぱり日常の中では生きられないタイプもいるっていう、視聴者に解釈を投げるような、少年漫画とは思えないような難解で、ある意味情緒深い結末を迎えるのだ。
シンプルな勧善懲悪で終わらせないあたりも仙水編の特殊さを煌めかせている要因のように感じたわけである。
そんなわけで、仙水編然り、それが放映されていた90年代ってのは、人々が自分自身や社会になんらかの疑問を持っていて「不満」や「怒り」を感じつつもそういった社会を構成する一部である自分自身にちょっとした嫌気のような「罪悪感」を感じていた時代なのかも知れない。
*余談ですが、改めて仙水編を見て感じたのは、ちょっと『オウム事件』っぽいなという点。あれも優秀な若者がやばい教祖に洗脳されて、どんどん先鋭化した結果招いた凶悪な事件とも言えるように思うので、かなり仙水編っぽいなと感じたんだけど、幽遊白書の原作ってサリン事件より前に完結してるあたり…漫画というのは意図せず未来を予言してしまうようなところがあるんだなぁとしみじみ恐れ入ったわけである。
戸塚からは以上です。