塞翁が馬...
人間万事塞翁が馬
とても大切は友人が事故に遭遇しました。そして私や周りの人たちに起こる色んな出来事も重なったりしていたところに、心友の呟いた言葉に深く思うところあり、自分の忘備録として、また誰かの気づきになればと書き留めておきます。
この「塞翁が馬」とは、中国の故事で、予想外の出来事が好転することを示しています。
この物語は、突然現れた幸運や不幸が、最終的には必ず逆転するということが語られているんです。それは、ある老人が、逃げた馬が戻ってきたことで幸運を得たり、逆に子馬をもらって悲劇が起きたりする、予想外の展開を繰り返すことから始まる古代中国の話です。
その物語は、こんな感じで...
あるとき、塞翁という老人が、馬を失くしてしまいました。しかし、その後、彼の馬が自ら帰ってきただけでなく、野生の馬を連れて帰ってきたのです。
村人たちは、塞翁が幸運に恵まれたと喜びましたが、彼は「幸運か、不幸か、わからないものだ」と語りました。
その後、塞翁の息子が、新しい馬に乗って遊んでいたところ、転んで足を骨折してしまいます。
村人たちは、塞翁の息子が不幸に見舞われたことを悲しみましたが、塞翁は「幸運か、不幸か、わからないものだ」と再び語りました。
その後、戦争が起こり、すべての若い男たちが召集されましたが、塞翁の息子だけは足を折っていたため、召集されることはありませんでした。
村人たちは、塞翁の息子が幸運に恵まれたことを喜びましたが、塞翁はやはり「幸運か、不幸か、わからないものだ」と語りました。
この物語は、人生の幸運や不運が、最終的には逆転することがあるということを教えてくれるとともに、それぞれの出来事が本当に幸運なのか、不幸なのかを決めるのは、その後の結果次第であるということを示しています。
この故事は
時に「禍福は糾える縄の如し(注)」という言葉で表されるように、人生において何が幸福で何が不幸かを正確に予測することができないことを示しています。
人生において起こる出来事は、しばしば意外な展開を持ち、長期的には幸運をもたらす可能性があることをつたえてますね。
このため、「塞翁が馬」という言葉は、予想外の出来事に対して冷静な対応をすることを促すために用いられることがあります。
注)「禍福は糾える縄の如し」とは
日本の諺であり、人生の幸福や不幸は、まるで縄のように絡み合っており、一見すると縄がほつれたように見える場合でも、その後の結果によって、幸福か不幸かが決まるということを表しています。
この諺は、中国の古代哲学書「易経」にも由来していて、縄を解くことができるかどうかは、その縄がどのように絡み合っているかによって決まるとされている。
同じように、人生の出来事も、単独の出来事ではなく、過去や現在、そして未来と絡み合っているため、その結果が幸福か不幸かは、それぞれの出来事を全体的に見たときに決まるとされています。
この諺は、人生の中で起こる様々な出来事に対して、単純な善悪の二分法で考えるのではなく、長期的な視野で物事を見ることの重要性を教えてくれます。
幸福や不幸は、一つの出来事だけで判断できるものではなく、それぞれの出来事を全体的に見て、その後の結果を含めて判断することが必要であるとされています。