274回 ウィンター・ワンダーランド


今年は暖冬で当地でも雪が少ない。先日の雪で今年初めて5cm程度の積雪になった。
太平洋側気候の松本市と日本海側気候の大町市(間に松川村があるが)に挟まれた安曇野市は、丁度両方の気候の真ん中あたりになる。日本海側気候の冬は降雪が多いが、太平洋側気候では冬に晴天が多い。実際松本に住んだばかりの頃は、信州=雪のイメージを覆され、晴れ渡って青く澄み渡る冬の空の美しさに感動したものだ。松本が晴れている時、安曇野では雪が降ることもあるが、大町ほどの大雪にはならない。この微妙な加減が面白い。
ただ問題なのは、松本にしろ安曇野にしろ、標高が高いということだ。これが何を意味するかというと、寒い。つまり気温が低い。とても低い。マイナスになるかどころではない。平気でマイナス10℃とかになる。これまでにマイナス15℃を経験したことがあるが、朝ゴミ捨てに行った時にダイヤモンドダストを見た。ここはスキー場か。
それでもこの30年でだいぶ気温は高くなり、マイナスと言ってもそれほどではないことが増え、最低気温を見ても、たいしたことないなと余裕をかますことができるようになっていた。

それが、である。
昨年の夏から自分でクルマを運転するようになった。毎日の通勤往復に運転を続けていれば、それなりに慣れてくる。その間には、ゲリラ豪雨に2回遭遇し、濃霧には数えきれないほど出会い、一度は直前に道路に飛び出してきた猿を危うく轢きそうになって肝を潰した。
もうそろそろ平均レベルには運転が慣れたと自負し始めた頃、冬が来た。
気温が低くても道路が乾いていれば、なんの問題もない。たとえ雪が積もっていても、新雪ならばスタッドレスタイヤと四駆でなんとかなる。怖いのは凍結である。雨でも雪でも降った後に急激に気温が低くなって凍ったらアウトである。
寒冷地に住んでいない方は、スタッドレスタイヤを履いていれば大丈夫だろうと思われるかもしれないが、スタッドレスだろうがスパイクだろうが、凍っている路面はどうにもならない。ブレーキは効かず、下手にアクセルなど踏もうものならスリップしてコントロールを失うだけ。ハンドルも効かないので、ただなすすべもなく滑って止まらない。
これが所謂アイスバーンという状態だ。

アイスバーン、ドイツ語で氷の道路という意味である。
同じ凍った道でも、アイスバーンにはいくつか種類がある。
圧雪路と呼ばれる「圧雪アイスバーン」は、積もった雪がクルマの往来によって踏み固められた状態を指す。これは比較的スタッドレスタイヤの制動が効きやすい。下層に雪があるのでクッション性があるからだろうか。また雪が固まっているので白いからわかりやすく、事前に注意することができる。
それに対して「ブラックアイスバーン」というのは、アスファルトの表面が氷で覆われた状態のことを言い、雨や日中溶けた雪が乾かずに、道路が濡れた状態で気温が下がり水が凍ることによって起こる。これはブラックというように黒いため、一見ちょっと濡れてるかなくらいに見えるので、まさか凍っているとは思わずスピードを出したまま走って、止まらず事故になる可能性が高い。特に夜は気温が下がってこの現象が起こりやすい上に、暗いので道路の状態がわかりにくく、大変危険である。
そしてもうひとつスタッドレスタイヤの普及に伴い増えているのが、「ミラーアイスバーン」というやつだ。スタッドレスタイヤは通常のタイヤよりも溝が深く刻まれているので、この溝で雪をしっかり掴むことができる。そして無数の切り込みが、解けた雪や氷をタイヤの外に排出する役割を担っている。そうなるとスタッドレスタイヤを装着した車が走れば走るほど、雪は水分を失い踏み固められ、ミラーアイスバーンをつくりやすくなるのだ。滑らないために開発されたスタッドレスタイヤが更なるアイスバーンを生み出してしまったのだから、皮肉なものである。このミラーアイスバーンはミラーという言葉通り鏡のようにツルツルで反射するため、比較的目視はしやすいが、交通量の多い道ほどできやすいため、注意が必要だ。
これらのアイスバーンについて詳しい記事が掲載されていたのが、全部保険会社のページであったということが、如何にアイスバーンによる事故が多いかを物語っている。

ただ雪が降っただけではアイスバーンにはならない。日中気温が上がったり、クルマの往来による摩擦熱だったりで雪が溶けても、ずっと日陰になっている場所や橋の上など道路の温度が最初から低いところでは完全には溶けきらず、夜間に気温が下がるとまた凍ってしまう。その間にもクルマは行き交うので、雪や氷は踏み固められていく。それが何度も繰り返されるうちに、カチカチに凍ってツルツルのアイスバーンが出来上がる。
雪が降らなくても濡れている場所があれば、アイスバーンになる可能性はある。通常水が凍るのは0℃だが、日陰や橋の上の道の路面温度は常に低い。気温が5℃以上あるといっても、こういった場所の路面は0℃やそれ以下になっている場合も多く、アイスバーンになりやすいので、気をつけていないとスリップしてしまう。
スリップというのは、タイヤの摩擦で氷が溶け、表面に薄い水の膜ができることで起きる現象である。免許がある人は、自動車学校で「ハイドロプレーニング現象」というのを教わった覚えがあるだろう。こちらは高速走行の際に起こるスリップだが、道路とタイヤの間に水の層ができることで制動が効かなくなるという点では同じである。
いったんスリップしてしまうともうハンドルではコントロールできない。
ブレーキも効かなければ、アクセルなど踏んでしまったらコントロールを失ったクルマは滑ってクルクル回ってしまう。雪国育ちの連れ合いは、圧雪アイスバーンで後続の車がクルクル回って周囲の雪の壁に突っ込んでいったのをバックミラーで見てしまったそうだ。
アイスバーン恐るべし。

かつてスパイクタイヤというものがあったことを覚えているだろうか。
その名の通りタイヤに金属製の鋲が沢山打ち込んであるもので、英語では「studded tire」と呼ばれ、 積雪路では威力を発揮した。しかし雪がない道路を走ると、この金属がアスファルトを削って粉塵を巻き起こす。仙台では「仙台砂漠」と呼ばれるほどの粉塵で、日中でも薄曇りで人々はマスクをしていたというから、これはもはや公害である。松本に来た当初はまだこのスパイクタイヤが普通に使われていたので、道路に面したアパートのベランダに洗濯物を干すと粉塵で黒くなるため、冬場は外に干せなかった。
スパイクタイヤは1959年にフィンランドで開発され、瞬く間に世界中に広まった。日本でも1962年から生産が始まり、1970年代にはそれまでのスノータイヤに代わって一般的に使われるようになっていた。スパイクタイヤは雪のグリップ力に関しては優れていたが、道路に雪がなくてもいちいちタイヤを履き替えることはしないので、ひと冬過ぎると道路がタイヤの鋲に削られて筋状にえぐれてしまい、毎年アスファルトを補修しなければならなかった。
スパイクタイヤによる粉塵は健康被害を引き起こすとされ、1991年から法律で使用が禁止された。今でも北海道の一部地域の限定された時期や、消防車や救急車といった緊急車両にのみ許可はされているが、実際にスパイクタイヤを目にすることはまずないだろう。

スタッドレスタイヤ(スタッド=鋲がレス=無いという意味)は、スパイクタイヤに変わるものとして登場したが、意外とその開発の歴史は古い。
タイヤメーカーとして有名なミシュランは、自動車の黎明期からタイヤを製造してきた。1912年にはタイヤチェーンの原型となるものを、1933年には現在のスタッドレスタイヤについているブロック状の出っ張り(ブロックパターン)があるタイヤを発売している。1934年には水を排出する「サイプ」と呼ばれる細かい溝を備えたタイヤを発表し、こうして現在のスタッドレスタイヤにつながる技術が蓄積されていった。
今のスタッドレスタイヤの原型は、このミシュランが1982年に出した「XM+S100」というタイヤだと言われている。ブロックパターンとサイプに加え、タイヤ自体を形作るコンパウンドと呼ばれるゴムの性能もこの40年でかなり向上した。
クルマを所有している人は、今一度自分の冬タイヤを見てみてほしい。トレッドデザインというタイヤ表面の形状には、クルマの歴史と開発者の情熱が詰まっているから。

外を見ると積もった雪がだいぶ溶けてきている。
これから日が暮れるとまた気温が下がるだろう。
願わくば明日の朝道路が凍っていませんように。
これ以上運転の経験値が上がらなくていいですから、安全に運転させてください。


登場した公害:粉塵
→粉塵の原因がスパイクタイヤだとは当時わかっていなかった。粉塵が酷かった仙台では論争が巻き起こり、社会問題化したそうだ。北海道でも問題になったが、それに終止符を打ち「粉塵の成分はアスファルト由来」であることを突き止めたのは、当時北海道大学講師であった毛利衛らの研究者であった。そう、日本人として初めてスペースシャトルの宇宙飛行士となった、あの毛利さんである。
今回のBGM:「雪が降る」by サルヴァトーレ・アダモ
→イタリア生まれのベルギー人がフランス語で歌った歌。聞いたことがない人はいないだろうという超有名な歌で、世界中で訳されて歌われている。日本語の訳詞をしたのが安井かずみだったというのは寡聞ながら知らなかったが、元々この曲は、安井かずみが離婚をして傷心でフランス滞在中、友人だったアダモが慰めるために作ったそうだ。慰めになったかは疑問。


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