219回 熱帯魚馬鹿一代


ネオンテトラという魚をご存知だろうか。
熱帯魚を飼ったことのある人なら知らないはずはないこの魚、その名の通り体の両横に鮮やかなブルーの蛍光発色の線を持つ、3~4cmのメダカのような小さな魚である。アマゾン川流域に生息する熱帯魚で、昭和11年に南米ペルーで発見された。
いまでは百円もせずに手軽に買えるネオンテトラだが、戦後すぐの昭和20年代には1匹1万円もした高価な魚だったという。当時銀行員の初任給が3千円だったというから、1万円が如何に高価であったか想像できるだろう。戦後の混乱期、ただでさえ熱帯魚を飼うという趣味が特別であったその時代。ネオンテトラは中でも憧れの魚であった。
このネオンテトラの人工繁殖に世界で初めて成功した日本人がいた。
その名を牧野信司という。何を隠そう、私の父親である。
今回は今年最後ということもあり、少し趣向の異なる話を書こうと思う。

牧野信司は、昭和3年に東京の上野で花屋の長男として生まれた。
どういうわけか熱帯魚の魅力に取り憑かれ、花屋は継がずに熱帯魚研究に邁進する。「日本熱帯魚研究所」という会社を設立し熱帯魚の飼育と繁殖に勤しむとともに、熱帯魚や熱帯性動植物を扱う所謂”ペットショップ”も営むようになった。
当時はワシントン条約などなかったので、今考えるとあり得ないような動物も公に取引されていた。彼は熱帯魚を別にすると、猿が大好きだった。私が生まれる前だが、オランウータンの子供がいたこともあったという。残念ながら長生きはできなかったようだが。
テナガザル、リスモンキー、スローロリスなどの猿系に加え、ヤマアラシ、コアリクイ、ワラビー、ベニコンゴウインコ、キバタンインコ、エミュー、いろんなワニにトカゲ、ヘビ、カメレオン、デンキウナギなどなど、当時動物園にもいなかったような動物たちが、我が家にはいた。
一応店をやっているので売り物ではあるのだが、彼は自分が飼いたくて仕入れているので、滅多に売らない。増えるばかりである。ただ決して大型の肉食獣には手を出さなかった。あくまでも自分が飼えると考えた範囲の生き物に留まっていた。それでもかなり常軌を逸していたと思うが。
生まれた時からそのような動物たちに囲まれて育った私は、人間より人間以外との接触の方が多かったと言っても過言ではない。

その時代、他に熱帯魚の専門家などいなかったので、牧野信司はどこでも引っ張りだこであった。数えきれないほどの飼育書に図鑑、人気のTV番組にレギュラーを持ち、街を歩けば「ペット教室の先生」として知らない人からも声がかかる。
昭和30~40年代に、熱帯魚のみならず小鳥や犬猫を飼ったことがある人なら、牧野信司が書いたなんらかの飼育書を手にしたことがあるに違いない。その頃他にそのような飼育書は出版されていなかったのだから。初心者向けからマニア向けまで、本当にいったい何冊の本を出したのか私も把握していないくらい、書いて書いて書きまくったのだ。
そして娘の私が言うのもなんだが、彼はとにかく弁が立った。いくらでも話ができて、またそれが面白い。人を逸らさせない話術があったので、講演やTVなどいろんなところからお声がかかった。なかなかに多忙な日々だったと思うが、どこへでも子供の私を一緒に連れて行ってくれたので、滅多にない面白い経験をさせてもらったと思う。その話はまたそのうち。
平成天皇(現在の上皇)がまだ皇太子だった頃、ご専門がハゼという魚の研究だったので、皇居に招かれて講義をしたこともあったそうだ。「よみうり号」という深海調査船に同乗し、小笠原諸島の深海に潜ったこともある。

今のようにネットなどはもちろん存在せず情報が殆どない中、水槽やエアポンプ、サーモスタットといった飼育機器も自作して、試行錯誤しながらたったひとりで戦後の熱帯魚ブームを作り上げた牧野信司。
下町の花屋の息子、工業高校卒で学歴もない中、東京大学や医科研といったアカデミックの牙城の錚々たる教授陣に可愛がられて一緒に魚類の研究ができたのは、持ち前の恐れを知らぬパワーと話術によるものか。
戦後の高度成長期、現代よりも情報も物も少なかっただろうが、やりたいことができる社会の鷹揚さとやりたいことを叶えるための風通しの良さというようなものが、あったように思う。もちろん今振り返れば、狭いケージで野生動物を飼育することの問題は大きいだろう。
ただとにかく好きなことを好きなだけやった牧野信司の生き方は、一番身近にいた娘の私からしても痛快だった。あの時代だからできたという面を別にしても、まあ良い人生だっただろうと思っている。

小学校の頃、親の職業を尋ねられるといつも困ったものだった。
困った末に「自由業」と言っていたが、思えば本当に自由業だった。なんにでも手を出したが、そこにあるのは一貫して「好きなことしかやらない」という姿勢である。
牧野信司を知っている人の誰からも、私は彼にそっくりだと言われる。
彼ほど自由ではないが、あっちこっち寄り道をしながらもやりたいことをやってきたというところは、確かに似ているのだろう。
不自由な世の中ではあるが、来年もせめて精神は自由で在りたいものだ。

今年もなんとか毎週更新を続けられたのは、読んでくださる方がいるおかげだと思っている。
来年も好きなことを書いていくつもりでいるが、引き続き「少女主義宣言」をよろしくお願いします。


登場した動物:猿
→もちろん当時でもとても高価な生き物である。彼は自分の父親(私の祖父)に「信司は猿さえ買わなければビルの2つや3つは建っただろうに」と嘆かれたそうだ。猿だけの問題ではないと思う。
今回のBGM:「ザ・ベスト 大橋節夫 ハワイアン・スタンダード」by 大橋節夫
→牧野信司が生涯好きだったハワイアン。若い時にバンドをやっていて、銀座の店でドラムを叩いていたとか、ウクレレを弾いていたとか、とにかくありとあらゆることをやった人だった。

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