313回 書くということ
「少女主義宣言」、313回目である。
ほぼほぼ毎週更新して7年目、我ながらよく書き続けていると思う。休んだのは2回だけだったか。
最初の頃は毎週必ず更新しなければという強迫観念に取り憑かれていたため、書けないことが怖くて3回分くらい先までストックを書いていた。「少女」と銘打っているからには何かしらそれと関係付けなければとも思っていて、今読み返すと殆どこじつけのように「少女」を打ち出しているところもあり、自分でも苦笑してしまう。
4年目くらいまでは、特にテーマにも困ることなく書けていたが、段々ネタが見つからなくなってくる。あれも書いたこれも書いたとなると、さて今度は何をテーマにすればいいやらと頭を悩ますようになった。何か良いネタはないかと考えあぐねていると、不思議なことに風呂に浸かってのんびりしている時にふと思いついたりする。
ネタさえ思いつけばこちらのものだ。それからはせっせと調べ物をして、かなりの量の資料を検索して読む。ネットにはフェイクの情報が溢れているため、情報源には慎重にならなくてはいけない。そうやっていろんな方向から情報を辿っていると、ああこの記事で間違えた内容が他に引用されて流布されるようになったのだなとか、情報の道筋がわかったりして面白い。物の歴史を調べる時は、初めに開発した会社の沿革を読んでみるのが確かなのだが、意外と競合他社も一番を名乗っていたりするので注意が必要だ。
そうやって調べた内容をそのまま書いても仕方ないし、膨大な量になってしまう。必要な情報と本筋には関係ない情報を切り分けて、どうやって自分の文脈に落とし込むかを考える。小説でも同じだが、何を書くかよりも何を書かないかの方が、実は難しかったりするのだ。
なので実際には書かれなかった雑学知識が、書く度に自分の中に蓄積されていくのである。
「少女主義宣言」は一応ハッシュタグには「#批評」とつけているが、きちんとした批評的内容を目指しているわけではなく、「少女」を自称する高柳カヨ子という個人を通してみた世界を書いてみたといったところだ。私が言うところの「少女」は、年齢性別関係ないひとつの価値観を持った存在のことなので、その「少女」である私の一種の思考実験なのである。
そう言う意味ではこの文章は、随筆というより本来の意味でのエッセイに近い。
エッセイの語源は、フランス語の「エセー(essai)」であり、これは「試みる」を意味する動詞「essayer(エセイエ)」を名詞化したものだそうだ。つまりエッセイとは、書きながら考え、考えながら書き、自分自身の中で思考を巡らせて、試行錯誤しながら思索を行う場なのである。
このエッセイの始祖とされるのが、16世紀フランスのルネサンス期の哲学者であり、モラリスト/ヒューマニストとして活躍した、ミシェル・ド・モンテーニュだ。彼が20年にわたって書き続けた『エセー Essais(随想録)』は、日々の生活や自身の経験から、様々な古典文学、そして人間とはなにかに至るまでの思索が、知的かつ内省的に、時にユーモアを交えて生き生きと綴られている。
エッセイは一般的に随筆とイコールととらえられることが多い。
しかし随筆というものは、書き手が自身の経験や出来事から得た情報を元に、気の向くままに感じたことを書き記したもので、エッセイとはニュアンスが異なる。
随筆の定義はまさに、吉田兼好が『徒然草』の冒頭で書いた通り「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば」なのだ。因みに
この『徒然草』の内容は、こう書いているにも関わらず、単なる「随筆」ではなく限りなく「エッセイ」に近いものだと言えよう。
テーマを思いついたら、自分は何に興味を持っているのか自問自答し、それに関する資料にあたり取捨選択を行い、ではそれは自分にとってどういう意味を持つか、どのような価値観に基づいてそう考えるのか、自分自身の中でディスカッションをする。
私にとってこの「少女主義宣言」は、本来の意味に於ける「エッセイ」なのだと考えている。
書く枚数も当初からすると随分増えてきた。
スマホで読む文章は原稿用紙4枚程度、せいぜい2000字が限度、などと書かれたのを読んで、その範囲に収めようとしていたのだが、次第にどうでも良くなった。書きたい内容があれば書けばいいし、丁度それで収まるならそれでもいい。字数ありきではなく、とにかく書きたいように書く。それで最近は結構長くなることが多く、原稿用紙10枚も書いてしまったりもする。
誰に頼まれて書いているわけではなく、自分で好きに書いているのだから、枚数も気分が乗れば多くもなるし、まとまりが良ければコンパクトにもなる。それでいいではないか。
それでも面白いことにこれだけ長く続けていると、だいたいこれで何枚くらいだなというのがわかる。読み返してちょっとくどいなと思えば、本筋とは関係ない情報は削ってスッキリさせたり、わかりにくいなと思えば、書き加える。その塩梅というか匙加減が感覚として意識できるようになったと考えると、これだけ長く書き続けてきた意味もあるというものだ。
大上段にテーマを掲げて掘り下げなくてもいい。
今この時の自分の興味や関心をきっかけにすればいい。
日常のちょっとした疑問を端緒として、現在の社会に横たわる問題を論じることは可能だ。
どんな些細なことでも、そこから世界に開かれた思索を展開することはできる。
たとえ「少女」が前面に現れなくとも、内なる少女はどんなときにも私の中に在るから、これからもきっと書き続けられるだろう。
登場した文学ジャンル:随筆
→世界最古の随筆文学というとすぐに『枕草子』が挙げられるが、ギリシア時代とかにはなかったのだろうか。それこそ古代エジプトでもパピルスに書かれた随筆とかあっても良さそうなものだが。ピラミッド工事の予算とか工賃の支払いとかの公的な文書や、数学や医学の教科書や旧約聖書の元になったような物語文学は残っていても、随筆のように個人的な感想を記した文章は、貴重なパピルスには書かれなかったのかな。
今回のBGM:「鳥の歌」クレマン・ジャヌカン作曲 アンサンブル・クレマン・ジャヌカン演奏
→モンテーニュが生きた16世紀フランスでは、ユグノー戦争などの宗教対立が激化していたため、宗教音楽はあまり発達しなかった。かわりに隆盛を極めたのが世俗音楽で、クレマンをはじめとする作曲家たちの多声によるシャンソンが人気となった。この「鳥の歌」は日本でも合唱曲として愛されたとのこと。