第308回 ミラーボールは回る
ライヴハウスに行ったことはあるだろうか。
あるどころか毎月のように行っているという人もいれば、未だかつて足を踏み入れたことがないという人もいるだろう。都会に住んでいるのでない限り、地方ではライヴハウスの数自体かなり限られてくるので、縁がなければ一生行かないで人生を終える人も多いに違いない。
そもそも音楽に興味がなければ行かない場所だ。
コンサートなら行ったことがあるが、ライヴハウスとなるとコアになりすぎて怖い、という人もいると思う。ライヴハウスはなぜか地下にある場合が多く、確かにちょっと怖いかもしれない。狭い階段を降りた地下深くにある箱(ライヴハウスのことを業界人や通はこう呼ぶ)は、火事になったらまず助からないなという怖さがあったりもするが、これはまた別の意味。
さすがに今ではだいぶ行く機会も少なくはなったが、それでも20歳くらいから40年以上の間に有名どころのライヴハウスには結構通っている。
今回はライヴハウスについて書いてみようと思う。
そもそもライヴハウスとはどういう場所か。
日本に於けるライヴハウスの歴史は、ジャズ喫茶から始まったというのが定説だ。
戦前から飲食店の店内で生演奏をするところはあったのだが、第二次世界大戦後に進駐軍を客とするナイトクラブやキャバレーが出来て、そこでバンドが生演奏をするスタイルが定着した。演奏される音楽はもちろんジャズだけでなく、ハワイアンにカントリーと幅広かったようだ。
余談だが私の父親は大変なハワイアン・ミュージックファンだったようで、若い時銀座のナイトクラブでハワイアン・バンドの一員としてウクレレを弾いていたとか。閑話休題。
現在はジャズ喫茶というと普通の人にとっては、マニアックな店主とマニアックな客が大音響でかかるジャズのマニアックなレコードを黙って聴いている、というイメージだろうか(だいぶ偏見だが)。
戦後すぐの1950年代、日本でジャズブームというものが起こった。当初は親しみやすいデキシーやスウィングが人気だったが、徐々にモダンジャズに興味を持つ人も増えてくる。当時のレコードは高価だったので、ジャズのレコードが沢山聴ける喫茶店に、若いミュージシャンたちも集まってきた。今聞けば錚々たるメンバーが、ナイトクラブの出番の前にジャズ喫茶にたむろしていたという。
そういうミュージシャンたちが、人気のあるポピュラーな曲しか演奏できないナイトクラブでなく、ジャズ喫茶の中でモダンジャズを演奏し始めたのが、日本に於けるライヴハウスの発祥と言われている。
その後1960年代に入ると、ロカビリーブームが起きて、ジャズ喫茶という名前にもかかわらずロカビリーの生演奏をする店も多くなった。一方生演奏はなく、レコードだけを聴かせるジャズ喫茶も生き残り、現在に至る。
一般的にライヴハウスというと、まず音楽のカテゴリーとしてはロックというイメージが強い。
1963年に開店した大阪BAHAMAも、1968年開店の東京HEADPOWERも、そこから沢山のロックバンドが大きく羽ばたいていった。
1970年代には、新宿、渋谷、吉祥寺や高円寺などの中央線沿線に、次々とライヴハウスができた。ロフト、屋根裏、BYG、La.mama、eggman、曼荼羅、JIROKICHI、などなど、現在もその場所で営業を続けている店もあれば、閉店したり移転したりした店もある。
1988年にPARCOが渋谷クラブ・クアトロをオープン、大企業がライヴハウスという事業に出資する嚆矢となった。そしてそれまで100人以下からせいぜい500人といったライヴハウスのキャパシティを一気に増加させたのが、1999年東京お台場にできたZepp Tokyo(2021年閉館)である。そのキャパ、2700人。ソニー・ミュージックを株主に持つZepp系列のライヴハウスは、その後全国の大都市に広がっている。
新木場にあったSTUDIO COAST(閉館)もU-SEN系列で2000人規模と、今に至るまでライヴハウスは、個人経営の小規模のものと大企業経営の大規模のものの2極分化している。
ライヴハウスというとスタンディングという印象が強いと思う。
実際100人を超えるとスタンディングでないと厳しいかもしれない。会場がたとえ小さくても、ロックの場合はスタンディングにするライヴがほとんどだろう。最近は禁止する会場も多いそうだが、モッシュやダイブが起こるハードなライヴでは、スタンディングは必須だ。
人気があるバンドでは、ただでさえぎゅうぎゅうに詰まった会場で、開演とともに客が前に押し寄せるため、最前列にいると柵に押し付けられて肋骨が折れそうになる(実際ヒビが入った知人もいる)。なかなかに辛い経験で、ライヴを楽しむどころではなかった。
ジャズ喫茶の流れを汲む、というか演奏されるのがジャズ系の音楽である場合は、テーブルがあって座って飲食しながら音楽を楽しむというスタイルが多い。
私が初めて行ったライヴハウスは、今は無き六本木ピットインであった。ここはジャズのライヴハウスの殿堂である新宿ピットインの姉妹店だったが、1977年の開店当時は六本木という場所とジャズという音楽の相性が悪く、客が全く入らなかったそうだ。それがフュージョンの大ブームが起こったことで、一気に人気店となる。
20代前半に、好きなミュージシャンがやっているバンドを聴きに、この六本木ピットインに月に一度は通っていた。前売りチケットなどというものはなく、並んだ順に入場できるので、まだ店の人もやってこない昼過ぎに行って、地下に降りる階段の一番下に座り文庫本を読みながら順番を取っていた。もちろん一番のりなので、最前正面のテーブルでライヴを満喫できる。開演前もゆっくり飲んだり食べたりできて、これがライヴハウスだと思っていた。
それがスタンディングになると、整理番号が早くて最初に入ったはいいが、立ったまま身動きも取れずに開演までの時間を過ごすことになる。
大きめの会場だと開場から開演まで1時間あるので、その時間をどうやって潰すか苦行となり、開演までにすっかり腰が痛くなってしまったりもするのだ。連れがいる場合はまだお喋りしたりしてなんとかなるが、ひとりの場合はかなり辛い。他の客はどうしているのか見回してみると、ひとりの場合はだいたいスマホをいじってゲームをしたりしている。
そういえば昔は入場時にカメラチェックとかもあったなと思い出した。スマホが普及してからは、スマホにカメラが付随しているためわざわざカバンを開けさせることは無くなったが、未だに日本のライヴでは撮影禁止が多い。海外のアーティストは積極的に撮影を奨励していて、映像をネットにあげてもらうことで宣伝になると考えているが、日本では何故か頑なに禁止している場合が殆どだ。
もっともせっかく目の前で生の演奏が繰り広げられているのに、ずっとスマホを掲げて画面を気にしているのも勿体無い。私は、こんな感じだったよと雰囲気を見せる程度撮ったら、あとはもうスマホはしまってしまう派だ。
ライヴは一度きり、生で味わう醍醐味はそこにある。
あるバンドに関わっていた頃、全国ツアーで地方のライヴハウスを回っていた。
ある小さな会場で終演後撤収をしていた時、ライヴハウス前に停めた機材車の脇でひとりで番をしていたところ、自転車で通りかかった女性に話しかけられた。
「ライヴが終わったところ?」
「はい」
「頑張ってね!B'zもライヴハウスから始まったんだから」
ああこの人はB'zの長いファンなんだろうなとほっこりすると同時に、小さなライヴハウスから始まってドームツアーができるまでにバンドがなるには、どれほどの実力と才能と運がいるのだろうと感慨に耽ってしまった。
ライヴハウスには幾多の夢と希望と挫折と絶望が詰まっている。
それでもどこのライヴハウスのミラーボールも、キラキラしてきれいだ。
人生はミラーボール。光と影をふりまいて、今日もどこかのライヴハウスで音楽が鳴っている。
登場したライヴハウス:六本木ピットイン
→リー・リトナーとラリー・カールトンというフュージョン界2大アーティストが演奏をしたおかげで、一躍フュージョンの殿堂となった箱。実際はフュージョンだけでなく、山下達郎や吉田美奈子という今となってはシティ・ポップの大御所や、若き坂本龍一といった才能のあるアーティストたちが集まる活気ある場所であった。推しむらくはビルの老朽化に伴う取り壊しで、2004年に閉店となってしまった。
今回のBGM:「IT'S A POPPIN' TIME」by 山下達郎
→彼のデビューアルバムは、六本木ピットインでのライヴ・レコーディングだった。ピットインが入っているビルの階上にはソニー六本木スタジオがあり、そこと会場を太いケーブルで繋いで録音したという。参加ミュージシャンは、村上“ポンタ”秀一(Dr)、松木恒秀(G)、岡沢章(B)、坂本龍一(Kb)、土岐英史(Sax)という錚々たるメンバーである。
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