326回 赤茶色のニクい奴
今回これを書くにあたって調べものをする中で、驚愕の事実が判明した。
これまで「ポピドンヨード」だと信じて疑わなかったものが、実は「ポビドンヨード」だったのだ。ほら、一発で変換もできないではないか。
病院では医師も看護師も薬剤師も栄養士も、みんな「ポピドン」と言っていた。電子カルテだって処方の際に「ポピド」と入力すると、ちゃんとフルネームの薬剤名が出てきた。私だけじゃない、きっと誰もが「ポピドン」だと思っている。だって「ポビドン」って言ってごらんなさいよ、とても言いにくいから。
もしかするとあまりにも発音しにくいため、本当は「ポビドン」だとわかっていても、わざと「ポピドン」と言い換えていたのか。それともみんな「ポビドン」とちゃんと発音していたのに、私だけが「ポピドン」と聞こえていたのか。
いずれにせよ私にとっては、これまで処方していたのはなんだったんだと思えるほどの、衝撃であった。
ここまで読んで、そもそもその「ポビドンヨード」とはなんぞや、と思われる方もいるに違いない。
「イソジン」と書けば、ああ、とおわかりになるかも。例のコロナ禍で大阪府知事がデマを流した「イソジンうがい」のイソジンである。いや、イソジンに罪はない。イソジン自体は立派に抗菌効果・抗ウイルス効果がある薬剤だ。ただコロナウイルスでもなんでもこれでうがいをすれば大丈夫、というのは間違いである。
感染予防の基本は、まず手洗いだ。イソジンうがいがコロナウイルスの感染予防に効果があるかについての、エビデンスは出ていない。それよりもあまり頻繁にイソジンでうがいをすると、ヨウ素の過剰な摂取による甲状腺への影響が起こる可能性があり、かえって害になるので注意が必要である。
過ぎたるは及ばざるが如し、なのだ。
このイソジンの主成分が、ポビドンヨードなのである。
ヨードというのはヨウ素のことだ。ヨウ素は原子番号53、第17族ハロゲン元素に属する非鉄金属元素で、ハロゲン元素の中では唯一常温で固体の元素である。1811年にフランスで発見され、気体が菫色を呈することから、菫色を意味するギリシア語を元に、フランス語で「iode」と命名された。英語では「iodine」という。
日本には早くも1842年(天保13年)に長崎に輸入されている。発見から30年あまりで薬として伝播してきたのだから、驚きである。そして1846年には江戸の医師である島立甫がヨウ素の抽出に成功した、と日本最初の化学書と言われる「舎密開宗」の外編巻一に書かれているそうだ。
明治時代になると次第に国産ヨウ素の生産が軌道に乗ってくる。ヨウ素の原料として用いられたのは、海藻灰という文字通り海藻を燃やしたものであった。ヨウ素は海藻に多く含まれている成分だが、中でも昆布が群を抜いてヨウ素の含有量が多い。余談だが、日本人は海藻をよく食べるので、世界で一番ヨウ素を摂取している国民らしい。
1900年代初頭になると、日本ではそれまでの海藻灰からヨウ素を生産する方法に替わって、天然ガスかん水(地下から天然ガスと一緒に出る古代海水)から生産する方法が主流になる。一方世界的には、19世紀半ばから始まったチリ硝石からのヨウ素生産が、20世紀に入ると全世界の市場の過半を占めるまでに発展していた。
資源に乏しい日本では珍しく、高濃度のヨウ素を含んだ水溶性天然ガス鉱床に付随するかん水が豊富に地下に存在している。因みにその80%は千葉県にあるそうだ。
このかん水からの日本のヨウ素生産は右肩上がりに上昇し、1967年には日本の生産量がチリの生産量を超え、日本が世界一のヨウ素生産国になった。1位のポジションは1997年まで約30年の間続くこととなったが、その後は再びチリに抜かれ現在に至る。日本のヨウ素生産量は世界の26%、チリは65%で、日本とチリで生産量の9割以上となる。
ヨウ素は、細菌やウイルスのタンパク質や脂質を酸化作用によって変性させる殺菌効果がある。
1920年頃にスイスの医師Coindetが、ヨウ化カリウムとヨウ素をアルコールに溶かした溶液「ヨードチンキ」を発明し、体内のヨウ素不足によって起こる甲状腺腫の治療に使ったそうだが、内服薬だったので胃への刺激が強過ぎて治療法としては広まらなかったという。それはそうだろう、これを飲めというのは無理があり過ぎる。
1830年頃にフランス人医師Lugolが、ヨウ素の消毒・殺菌効果に注目してヨードチンキを創傷用に使い始め、その後はもっぱら消毒剤・殺菌剤としての用途となった。耳鼻咽喉科などで用いられる、ヨウ素とグリセリンを混ぜた消毒液の「ルゴール液」は、このLugolの名前からきている。
ヨードチンキは、1870年代後半(明治10年代前半)には日本国内での製造が始まっている。長らく明治大正から昭和中頃までの間、ヨードチンキといえば創傷や手術時の消毒殺菌として使われてきた。ただ高濃度のエタノールが含まれているため皮膚への刺激が強いのが難点で、粘膜には使用できなかった。
小学生の頃は怪我をすると、赤チンと呼ばれたマーキュロクロム液か、ヨーチンと呼ばれたヨードチンキか、どちらかを塗られたものだ。真っ赤か茶色か、どちらにせよかなり目立つのが、恥ずかしかった記憶がある。
そこで登場するのがポピドン、いや「ポビドンヨード」である。
「ポビドン」というのは、ポリビニルピロリドン(PVP)という物質のことで、このポリビニルピロリドンにヨウ素を溶かしたものが、ポピドンヨードである。ヨウ素は水に溶けにくいが、ポビドンには溶けるのだ。
ポリビニルピロリドンは1930年代後半にドイツの科学者により発明された。当時は代替血漿として広く利用されていたという。水溶性高分子で、水やアルコールなどいろいろな溶媒に溶け、また他の高分子との相溶性にも優れていることや、様々な特性を持っていることから、日用品から工業製品まで多岐に渡って利用されている物質である。
人体や環境への安全性の高さと可溶化性を活かして、医療用などに使われているポビドンヨードは、1956年にアメリカのShelanski H.A.らによって開発され、製薬会社のムンディファーマが製品化した。その後1961年に明治製菓(現・Meiji Sika ファルマ)がムンディファーマと技術提携を行い、殺菌消毒薬及びうがい薬として医薬品の承認を得たものだ。
ポビドンヨードの代名詞である「イソジン」という名前は、ヨウ素の「iodine」と、このヨウ素液が体液と浸透圧が等しいことからの「isotnic」を合わせて、「ISODINE」としたとのこと。ライセンスを持っているムンディファーマ自体は、「BETADINE」という名前で世界展開しているので、外国でイソジンといっても通用しない。
ポビドンヨードは、手術時の手指消毒のスクラブ剤として使われてきたが、近年はクロルヘキシジングルコン酸塩やアルコール手指消毒剤にとって代わられることも多い。
それでも化膿した創傷や悪化傾向の褥瘡の処置には、ポビドンヨードゲルがとても役に立っている。
これだけ仕事で愛用していながら、これまで名前を間違っていてごめん。
でもやっぱり呼びにくいから、これからも「ポピドンヨード」って呼ぶね。
登場した製品:イソジン
→「イソジン」と言えば、あのカバのキャラクターでお馴染みのうがい薬。Meiji Seika ファルマから発売されていたが、2015年にムンディファーマがライセンスを引き上げ、2016年からは「イソジン」ブランドは塩野義製薬を通じて販売されるようになった。明治は「イソジン」商標は失ったため、実際の製品は同一のものを「明治うがい薬」として販売継続していたが、令和4年からそれまで実際に製造を行っていた健栄製薬が製造販売権を受け継ぎ、現在は「健栄うがい薬」として販売している。「カバくん」のキャラクタは引き続きこちらで健在。一方「イソジン」も当初はカバに似たキャラクタを使っていたが、明治に訴えられたりして色々あり、今はイヌのキャラクタに変わった。カバに比べるとインパクトが弱い点は否めない。
今回のBGM:「ただいまのあとは」小杉保夫作曲・伊藤アキラ作詞・やまがたすみこ歌唱
→1985年から30年近く歌われてきた「イソジンうがい薬」のCMソングである。カバくんは永遠の4歳だそうだ。