たまには御朱印でも
12月。
めっきり朝晩は冷え込むものの、日中は12℃近くまで気温が上がるため、昼間でかけるときはトレンチコートで十分。
故郷・東北の気温を調べたら日中でも5℃らしい。寒過ぎでは。
ずっとテンション高く過ごしていたのだけれど、反動でメンタルの調子を崩し、しばらくSNS断ちしてました。と言っても1週間ぐらい?
気持ちが上がって行動が増えると、最初は楽しくやってるものの、その分人との交流も増え、並行して自己顕示欲とか承認欲求も増えるわけで、それが当然満たされないと他者不信や自己不信に陥って抑うつ的になるという悪循環。思考が停滞する分焦りが増して非生産的な自分がどうしようもなく許せなくなってしまう。
もちろん自分の中での話なので、別に仕事に支障をきたすわけでもなく誰かに勘付かれるわけでもないので、長年の経験から、大人しく浮上するのを気長に待つのみです。
さて、そんな今日。
2週間後に引越しなので、荷物を段ボールに詰める作業をしている。
要る要らないをやり始めると終わらないので、とりあえず直近で使うもの以外を手当たり次第に詰めていく。そもそも日々こまめに断捨離をするので、手元にあるのは2軍までなのだけれど、それにしても荷物が多い。
「なんでこんなの買ったんだろう・・・使わないじゃん・・・・でもまた売ってたら絶対買うだろうな・・・・」
そんな謎の小物ばかりで溢れている。
それが人生なのかもしれない。
そんな片付けをしていて、扱いに困ったのが「お札」。
去年、近所の子授け神社で祈祷してもらった時にもらった大層立派なやつ。
1年前の自分は不妊治療がうまく行かず、「よし次は神頼みだ!」と思い立ちお金を出して祈祷までしてもらったわけで、今思うとなんとも初心というか、かわいらしいものだったなと思う。
その後色々あって「神なんて居ない」となり、お札に関しても、見るたびになんとなく憂鬱な気分になっていたのでした。
そんなことは言ってもお札を燃えるゴミにだすのはさすがに気が引けるので、散歩がてらに神社に返納しに行ってきました。
(※お札の返納のタイミングに関しては、ググって見たところ願いが成就したら、とか1年経ったら、とか様々説があるようですね)
でも、久々に神社に行ったらなんだか良かったな。
綺麗に整備された境内とか、異世界の入り口みたいな朱色の鳥居とか。
子授け祈願もそうだし、安産祈願や厄除け、初宮参りもやっている神社だから、家族連れで賑わっていて、皆良いことを願いに来てるから、活気がある。
そんな人々を横目で見つつ、とりあえず神様に挨拶ということでお賽銭。財布の中身が10円玉と1円しかなく、どれを組み合わせても中途半端だと思い、小銭を全部奉納。
神社の隅にある返納所にお札を納める。こういうの初めてだから恐る恐る、といった感じだったし、最後までお札やお守りを手放すのが正直後ろめたかった。
でも手放した直後にはもう、すごいスッキリした!!!!!
清々しいの一言。
気持ちよくて、ついでに社務所で売ってた御朱印(季節版1枚、切り絵版1枚)買っちゃった。良いんだよ、楽しいから。
元々御朱印集めを口実にいろんな神社仏閣を巡るのにハマっていた時期もあったので、久々にその頃の楽しさを思いだしたよね。
来て良かった。
ところで、上にも書いた通り、「私は神も幽霊も存在しない」派なんだけれど、正確にいうと、「信じてる人にとっては存在するし、信じない人には存在しない」だと思ってる。
話はずれるけれど、神や幽霊は信じないけど、「イイ場所」「ワルイ場所」とかはあると思ってる。それは別にスピリチュアル的にとかじゃなくて、単純に日当たりや風通しが悪い、湿度が高い、不衛生、とかそういう人間が不調を来たしやすい場所という意味なのだけど、人によってはそういう要因をスピリチュアルに結びつけるのかもしれない。ついでにいうと、世の中にはカーテンを閉め切って1日過ごしても全然平気みたいな人もいるのだから、そういう人にとっては別に「ワルイ場所」でもなんでもないわけで。
要するに、気持ちの持ちようなのだと。
神様を信じる人は、信じることで安心が得られるというメリットがあるから、信じるわけで。
でもそれってとても大事なことだと思う。
何かを信じるというのは、相手に敬意を持つ、大切にするということ。そしてそのプラスの感情が、ひいては自分を信じること、大切にすることにつながると思っている。
お参りをするとき、二礼二拍手一礼という作法をして身を引き締めた状態で神様に祈る時、誰しも畏まり、少し背伸びをして、少し良いことを願うと思う。私も日々どんなに心の中で他人や自分を呪っていても、あの瞬間になると「いつもありがとうございます、自分なりに頑張ってます。これからも皆が幸せに暮らせますように」と願っている(これは本当)。
あれはきっと神様に願うという体で、自分に暗示をかける効果があるんだろうな。
私の思う不幸は、自分や他者を信じられなくなることだと思う。
そしてそれは自分の気持ちの持ちようで簡単に変化してしまう。
生きてると色々なことがあって、自分の気持ちを前向きに維持するなんて到底簡単なことではないけれど、どんなにぐらつくことがあっても、最終的には自分の信じる道を進んで行きたいよね。
ちなみに、1年前に子授け神社にお参りに行ったとき、裏に停めてある神主さんの高級外車を見て「俗っぽい笑笑」となりつつ、肝心の祈祷についても、神主さんのドスの効いた声に合わせて大きな卵の置物に夫婦で手を翳してパワーをもらう、というなかなかエンタメ要素を感じる儀式で、正直あまりの恥ずかしさと困惑で居た堪れず死にそうだったため、まあ効果なんてあるわけないよね。「これで力をたくさんもらえたから大丈夫〜(ホワホワ)」なんてなりませんよ!!
どこ行ったってそう。「入り込めない」のよ。
いや無理だろ!!!
そもそもなんでもそうだけど、信仰対象に認知されるとか1番無理。恐れ多い。勝手に慕ってたい。一方通行のコミュニケーションが安心する(前もそんなこと言ってた気がする)。
そんなことを考えつつ、「信仰を失った神は消える・力を失う」というのはさもありなん・・と思ったのでした。
ところで最近の神社仏閣って商売っ気隠しませんね。
どこの境内にも大体神主・宮司の立派な車停まってるしね。
まあなんだって、活気があるのが1番なので、別にいいと思います。
どんなに由緒正しかったり、スタッフの意識が高くても、結局人が来ないと神様は消えてしまうのだから。令和の生き残り合戦は、神社仏閣も例外ではないということなのだろうな。
全然関係ないけど、今「岸辺露伴は動かない」ドラマにハマってて、あれ結構オカルト要素が多くて楽しい。「四つ辻は良くない」とかね。確かに私も毎日車で四つ辻(十字路)を通るのだけど、見通し悪くて嫌いだから、「わかる〜!」と思う。
信じるかどうかは別として、民間伝承系は大好きだし、その伝承が生まれた流れとかはすごく面白いなと思う。
逆に六曜とか風水は、本当に馴染みがないので、風水的に悪くてもなーんにも人生に影響しないんだろうな。信じてる人は恩恵に預かるのだろうけど。
岸辺露伴はあんな捻くれた性格なんだけど、(ドラマ設定的に)人の心が読めるという「ギフト」を持ってるから、結構怪奇現象系にビビったり取り込まれやすいところがあるんだけど、対する編集者の泉京花はあっけらかーんとしてて、ドラマでも映画でも怪異が一切無効で本当に面白い。岸辺露伴というよりも、泉京花を見たくてあのドラマを見てる感はある。あと岸辺露伴の住んでる家が最高に素敵だよね。
光る君へ、でも、藤原道長はあれだけ呪詛されてても一切効かなかった。人の死という穢れについても、信じてないから恐れなかった。
あの安倍晴明だって、「呪詛も祈祷も人の心のあり様なのでございますよ。私が、何をせずとも人のことです」と自分の心の持ちよう次第だと言ってたしね。
その人それぞれがなにを信じてなにを信じてないか。
普段生活してる中ではなかなか気づかないけど、ふとした瞬間にそれが垣間見えると、すごく面白くて満足感が高い。
久々に京都の神社仏閣巡りしたくなってきた!!!!!!