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【台本書き起こし】シーズン3「千利休と天下人たち」最終話 利休切腹:ボイスドラマで学ぶ日本の歴史

NA:天正14年(1586年)、豊臣秀吉は石田三成を堺の代官に任命し、堀を埋め始めました。堺の町を拡張し、大坂とのアクセスを便利にするという名目でしたが、自由都市・堺の象徴である環濠を埋め、徐々にその独立性を奪おうという狡猾な手口です。

○ 堺・鉄砲鍛治町
NA:そのころ利休はと言うと、堺の鉄砲鍛治町で、楽茶碗の製作に耽っていました。芸術家としての盛りを向かえ、利休は己の侘茶の完成に邁進していたのです。それはともすれば周囲には、傲慢で偏屈な姿勢にも映りました。
宗及:利休様、やはりこちらでしたか。
利休:これは、宗及様。
宗及:また黒ですか?しかし黒は秀吉様が忌み嫌われている色だと伺っておりますが?
利休:利休は黒が一番好きなのです。
宗及:利休様らしいが、秀吉様には赤をお見せなさいませ。
利休:さて天王寺屋様自らこのようなところにまでお越しになり、何かございましたか?
宋及:実は石田三成様よりまたこのような勝手な通達が届き、会合衆一同難儀しております。つきましては秀長様にお取次ぎ願いたく参上いたしました。
NA:この頃、利休は秀吉の弟・秀長から絶大な信頼を得て、茶事のことだけでなく内政や政策にも関わっていました。しかしそれは堺や弟子の大名たちからの取次依頼が殆どで、利休自ら望んで関わったのではありませんでした。

◯待庵
秀吉:三成には確かに堺の堀を埋めよと申しつけた。
利休:御意。
秀吉:利休、どうせ堺衆に泣きつかれたのであろうが、一々秀長に言いつけるな。そなたと三成の板挟みとなって、秀長の身が持たん。
利休:・・濃茶でございます。
秀吉:また黒楽茶碗か、ふざけるな!
三成:殿下、如何なさいました?
秀吉:出しゃばるな、佐吉!
三成:ハハーッ。
利休:黒は金色と最も相性良き色にございます。殿下の黄金の茶室には黒・・。
秀吉:利休、己だけが茶の湯を極めていると思うなよ。
利休:・・畏れ入りまする。
秀吉:そなたが黄金の茶室を考案するに当たって亡き信長様の安土城を手本にしたことは分かっておる。しかしな、この関白秀吉の目指す茶とはあのような極楽での幸福ではなく、この世での至福じゃ。
利休:この世での至福、でございますか?
秀吉:おうよ、今、この世を楽しまんでどうする?歓喜じゃ。宴じゃ。聚楽じゃ・・・分からんか?ならそれがいかなるものか、そなたにも教えちゃろう。

NA:天正15年(1587年)9月、秀吉は京都聚楽第(じゅらくてい)を完成させ入城、敷地内に利休の官邸も用意しました。そして同10月、秀吉は北野天満宮にて、お茶を愛好するものならば身分や国籍の差別なく参加できる大茶会『北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)』を開きました。それは秀吉流の『茶湯天国(ちゃのゆてんごく)』あるいはお茶のテーマパークとでも言いましょうか、関白自らが企画・出演迄して見せた一大イベントでした。秀吉はまず持ち込んだ黄金の茶室に宗易・宗久・宗及の三宗匠を初め数寄者大名や公家たちを並べ、自ら茶頭として茶をたててみせました。その後、一般の参加者にも茶を振る舞い、そして午後からは他の参加者の茶席も見て回ったといいます。茶会は1日だけで千人近い人を集めたと言われています。
秀吉:見よ、利休。みんなが笑顔じゃ。老若男女貴賎の差別なく、茶が好きならば誰もが楽しめる。これじゃ、これなのじゃ!ワシが目指す茶のあるべき姿じゃ!だがこれはただの始まりにすぎん。これから新築した聚楽第に公家や大名をどんどん招き、さらに喜びに溢れた関白の茶を披露するぞ!利休、それがワシの茶だ。聚楽の茶ぞ!
NA:この秀吉と利休の茶の湯に対する思いの相違が、やがて利休の切腹を招いたのではないか、という説があります。確かにそうだったのかも知れません。ですが秀吉と利休が直接歪みあったというよりは、寧ろ誰かがその溝を広げ、火に油を注いだのではないでしょうか。少しばかり想像を広げてみましょう。

◯聚楽第利休の官邸
NA:ある日、聚楽第の利休の官邸に石田三成が突然訪ねてきました。利休は茶をたて、三成をもてなしました。
三成:利休様、お尋ねしたきことがございます。
利休:はい。
三成:三好の宝の行方をご存知か?
利休:・・・その話、何処から?
三成:関白殿下より内々に三好の宝を探せと。
利休:殿下が?
三成:先日、三好咲岩様が高野山よりお見えになり、殿下に三好の隠れ里に伝わる宝剣伝説をお話になられたところ、
無心に面白がられ、ついにはその宝剣を探して来いと私にお命じになりました。
NA:三好咲岩康長は本能寺の変の後、記録上行方が定かでありません。一説では養子である秀吉の甥・秀次に家督を
譲り、出家して高野山に入山したとも言われています。
利休:その宝剣のことでございましたら探すには及びません。かつて信長様も同じようにご興味を抱かれ、この利休に探してくるようお命じになられましたが、何もございませんでした。
三成:何もなかったという証しは?
NA:利休は大切にしまってあった三好長慶から手紙を取り出して、三成に見せました。
三成:なるほど。ところが咲岩様のおっしゃることには、宝剣はあるのだと。自分が隠したのだと言うのです。
利休:フフ、咲岩様らしい。しかしその手紙の筆跡は間違いなく長慶公のものでございます。
三成:さようか。ではこの手紙、証拠として殿下にお見せするが、よろしいか?
利休:さ、それは・・。
三成:何か不都合でも?
利休:・・いえ、結構でございます。
NA:その翌朝、秀吉が利休の茶室に御成になりました。石田三成も同席です。
秀吉:利休、水くさいではないか。なぜこの長慶公よりの手紙、今までワシに見せんかった?
利休:長慶公とは竹馬の友でございました故。関白殿下にお見せするようなものでは・・。
三成:信長公には見せたのであろう。これを見せて『宝剣はなかった、三好の宝はワタクシでございます』と申したのであろう?
利休:そのような・・。
三成:ではなぜ殿下にその宝剣の話をしなかった?そなたもしや三好咲岩と企んで、宝を渡したのであるまいな!
利休:まさか・・これまで殿下にお話しなかったのは、このような伝承伝説の類でお心を煩わせるに及ばずと・・。
三成:ではなぜ信長公には話したのだ!
利休:殿下?
秀吉:申してみよ。
利休:・・三好長慶公が生前、私に天下人を探し出せとお命じになられたのです。天下を治める器に三好の宝を譲ると。
秀吉:なんと・・・。
利休:ですが、その宝とは何なのか、お尋ねする前に長慶公は亡くなられました・・・この手紙を見た信長公はただ笑っておられました。
秀吉:・・・さようであったか。
三成:殿下、この三成、今の話聞き捨てなりませぬ。利休は今、信長公を天下人とは認めたものの、関白殿下を天下人とは認めず、宝剣の話は打ち明けず、また長慶公の手紙も見せなかったと、この三成めには聞こえ申した。
秀吉:控きゃ―よ佐吉、ワシが利休と話してるのじゃ!
三成:ハーッ!
NA:宝剣の話は全て創作ですが、成長著しい石田三成が秀吉と利休の間に割り込んできただろうことは、想像に難くありません。そして天正18年(1590年)事件は起きました。利休の高弟である山上宗二(やまのうえそうじ)が秀吉の命令で斬殺されたの
です。小田原北条氏攻めの最中、敵方に内通しているのではないかと、疑われてしまったのでした。山上宗二は利休以上に潔癖な気性で、たびたび秀吉を怒らせては出奔していました。しかも今回は敵方の小田原北条氏に仕えていたと言うのです。当然スパイの容疑がかけられました。しかし宗二は一度、利休より直接秀吉へのとりなしで赦されたはずでした。ところがその後、再び秀吉の逆鱗に触れ、耳と鼻を削がれ首をはねられたと言うのです。秀吉の気性をよく知る誰かが、その耳元で讒言を吐いたとしか考えられません。

◯寿楽第土間
NA:天正19年1月、秀吉が最も信頼し利休の後ろ立てでもあった豊臣秀長が病に倒れると、石田三成ら若手側近
による利休追い落としがあからさまとなりました。その日、利休は石田三成に呼び出され聚楽第に登城すると、不意に三成らに取り囲まれました。
三成:利休、その方、大徳寺山門の金毛閣に自身の木像を置きたること、相違ないか?
利休:山門寄進の礼にと、大徳寺が作ってくれたものです。それが何か?
三成:不届き者!雪駄を履いたその方の木像の下を、関白殿下がお潜りになれると思うたか!
利休:それは・・。
三成:黙れ黙れ!たかが茶頭の分際で増長はなはなだしき奴じゃ。そこへ直れ。
利休:な、何をなさいます!
NA:三成は利休を土間に突き飛ばし、無理やり座らせました。これが大徳寺の利休像事件です。大徳寺は利休ら三宗匠や、堺の町と太い絆があるのは既に述べましたが、織田信長の墓所でもあり、秀吉もよく通う場所でありました。その入り口の山門に雪駄を履いた利休像が置かれたことが問題視されたのです。その後、利休は堺の私宅に蟄居を命じられ、一旦京都を離れました。その間、秀吉は沈黙したままでした。木像の件だけでなく、よほど腹に据えかねる何かがあったとしか思えません。事態は利休の生死に及びました。前田利家をはじめ多くの大名たちが助命を嘆願しましたが、秀吉の怒りは治らなかったと言います。

◯堺・利休邸
NA:深夜、堺の利休邸に会合衆や弟子らが、密かに集いました。弟子と言っても皆大名クラスです。
宗久:銭で解決できんのか?
茶屋:今や関白殿下は日本一の金持ちよ、銭には興味あるまい。
NA:今井宗久と茶屋四郎次郎です。
宗久:では名物はどうじゃ、えーと三日月は今誰が持ちやる?
茶屋:本能寺で焼けました。
宗久:えい、他にはないか?おおそうじゃ、宗及様、三好にはもうお宝はございませぬか?
宗及:さて三好の宝か・・・何があったか。
茶屋:最初の天下人たる三好長慶様ご秘蔵のお宝などあれば、関白殿下のご機嫌も直るかも知れませんな。
宗及:それにしても利休様いったい何を関白殿下に申し上げたのじゃ、何をすればこのようなご勘気を頂戴できるのか。
NA:利休は懐にしまった長慶の手紙を取り出して、一同に見せました。
長慶の声:三好の宝とは、千利休、そなたのことだ。
宗及:これは!
宗久:うーむ。
NA:その手紙を見て、一同は絶句しました。このような立派な箱書を見たのは初めてだったのです。武将なら誰もが敬愛する天下人・三好長慶の直筆で、三好の宝は千利休であると書いてあるのです。利休こそがまさに生きた天下の宝なのでした。
宗久:これを関白様にお見せになられたのか・・。
宗及:なるほど、な。
宗久:うむ。関白様は嫉妬されているのだ。
茶屋:嫉妬?でございますか?
宗及:利休様と長慶公の美しい情愛に。
宗久:天下一の宝となった利休様に。
宗久・宗及:嫉妬されたのだ。
茶屋:それなら、謝ればよろしかろう。謝ってお許しを・・。
宗及:いや、謝れば利休という宝に傷がつく。
宗久:さよう。長慶公が箱書し信長公が箔をつけた宝に傷がついてしまう。
宗及:関白の権威の前に膝つくか、それとも・・。
茶屋:それとも?
宗久:・・金無垢の宝として散るか。
茶屋:そんな・・。
利休:この利休もそう思います。関白殿下に謝ればそれで済むことかも知れませぬ。がしかし、これは利休の侘茶を後の世まで問う絶好の機会だと思うのです。

利休:利休めはとかく果報のものぞかし菅丞相になるとおもへば。

NA:やはり讒言で太宰府に流された天満宮・菅原道真公に自分を例えた千利休の辞世です。利休は覚悟の上で、レジェンドとなる道を選んだのでした。ちなみにこの後、堺は大坂夏の陣で徳川側に味方したとされ、1615年豊臣の家臣である大野治胤(はるたね)の手で焼き討ちされました。その後多くの堺商人が家康の手によって江戸に移り住んだと言われています。
NA:天正19年(1591年)2月28日、千利休は聚楽第にて切腹して果てました。享年70歳。
利休:人生七十(じんせいしちじゅう)力囲希咄(りきいきとつ)吾這寶剣(わがこのほうけん)祖佛共殺(そぶつともにころす)提(ひっさぐ)る我得具足(わがえぐそく)の一太刀(ひとつたち)今此時(いまこのとき)ぞ 天に抛(なげうつ)。

作・演出:岡田寧
出演:
 千利休⇒西東雅敏
 今井宗久⇒望生
 津田宗及⇒平塚蓮
 茶屋四郎次郎⇒濱嵜凌
 豊臣秀吉⇒小磯勝弥
 石田三成⇒吉川秀輝
 ナレーション⇒大川原咲
選曲・効果:ショウ迫
音楽協力:H/MIX GALLERY・甘茶
スタジオ協力:スタッフ・アネックス
プロデューサー:富山真明
制作:株式会社PitPa

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