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【台本書き起こし】シーズン3「千利休と天下人たち」第6話 豊臣秀吉:ボイスドラマで学ぶ日本の歴史

◯燃える本能寺
NA:天正10年(1582年)6月2日早朝、本能寺は焼け落ちました。織田信長の遺体は明智光秀らがいくら探しても見つけられなかったそうです。跡形もなく燃えてしまったのでしょうか。千利休がこの前日、公家を招いた茶会の茶頭を務めたという記録は残っていません。堺で天王寺屋宗及と一緒に家康をもてなしていたとも、諸説ありますが、ここでは京都にいたという説で話を進めたいと思います。利休は本能寺周辺を悄然と彷徨っていました。本能寺はまだ明智軍が取り囲み、近寄ることが出来ません。。
利休:上様・・信長様・・。
NA:その時、馬上から呼び止める声がしました。
茶屋:宗易様、宗易様ではございませぬか?
利休:な、なにやつじゃ!
茶屋:お見それか、茶屋四郎次郎にございまする。
利休:おお、これは茶屋様か?
NA:茶屋四郎次郎は京都の裕福な呉服商で、この後、徳川家康の政商としてのし上がった人物です。利休とは茶会で何度か顔を合わせていたかもしれません。
利休:上様が、信長様が・・。
茶屋:信長様は討死されたとのこと。ご無念にございます。
利休:なんと!ああ・・・。
茶屋:拙者これより堺まで馬走らせ、この急をお知らせ申す。
利休:堺へ?
茶屋:宗易様、ここは危のうございます。明智の者に見つかれば、命さえ取られるやも知れませぬ。どうぞこの馬に。
NA:茶屋四郎次郎は配下の者の馬に利休を乗せると、明智勢の囲みをすり抜け、一目散に京都を後にしました。
茶屋:それ!それそれ!

◯飯盛山城
NA:茶屋四郎次郎は南へと早駆けに駆けて、昼前には河内国の飯盛山付近に差し掛かかりました。あの三好長慶の居城であった飯盛山城のある場所です。家康はここで茶屋四郎次郎と出くわし、本能寺の変を知らされたことになっています。これをただの偶然と捉えればそれだけですが、家康が堺衆や三好家とともに事の成り行きを見守っており、場合によっては2次的なリアクションをとる構えを見せていた、とも考えられなくはありません。飯盛山は、大和川水系の水路と、京や大和へ抜ける街道が交わる、交通の要です。京都に駆けつけるにも、伊勢方面へ逃げるにしても絶好のポジションなのです。ちなみにこの時、飯盛山のある河内国国主にはあの三好咲岩康長が復権していました。
茶屋:家康様、明智光秀謀反にございます。
家康:四郎次郎、大儀である。
家康:おお、これは宗易ではないか?
NA:馬から降り立つ利休に家康が声をかけました。
利休:家康様、無念でございます。
家康:それで上様は?信長様は如何した!
NA:利休は首を振りました。
家康:そうか・・・。
NA:この時家康は京都知恩院迄行って腹を切り、信長に殉じようとした、と伝わっています。しかし家来の本多忠勝に、仇討ちすることこそ忠義と諭され、京には向かわず大和へ抜けて、難所である伊賀越えを敢行したのです。もちろん同行する家臣の手前、逃げるという選択の前に、自ら範を示す必要があったのでしょうが、家康が極めて忠義の武将であったことを示すエピソードです。
利休:家康様、おやめください!
家康:どけ利休、死んで上様にお詫びするのじゃ。
茶屋:家康様は信長様の死を無駄になさるおつもりか!
家康:なにいっ?
利休:信長様は戦乱を沈め天下泰平の世を実現されるために命を尽くされたのです。このまま謀反人明智光秀の天下と
なって、果たしてそれが実現されましょうや?親が子を喰らい、子が親を襲う畜生の世に逆戻りではございませぬか!
家康:おのれ、生意気な!
利休の心の声:仙熊、これでいいか?
NA:陽が大阪湾を銀色に輝かせています。
利休:今から14年前、私は信長様とここで初めてお会い致しました。我が友、三好長慶様の御霊を慰めんと思い登山すると、偶然にも信長様も長慶様を偲ばれていらしたのです。そのとき信長様は天下を治めると、まさにここで、長慶様に誓われたのです。
家康:あいわかった。宗易、そなたの申す通りじゃ。皆の者、謀反人明智光秀に天下取らせるは武門の恥ぞ。見事お父上の仇を討ち、天下をまとめられた三好長慶公にわれらも習わん。長慶公は、一旦は阿波国に引かれたと聞く。我らもここはなんとしても生き抜いて、信長様のご無念をお晴らし申すぞ!
家臣団:おう!
NA:家康は大和から伊賀を超えて伊勢へ抜け、そこから海路で三河に戻りました。神君伊賀越えと呼ばれています。6月5日、明智光秀は安土城に入り銀を持ち出すと、9日に再び京都に入り公家や町衆の出迎えを受け、戦勝パレードをしています。そしてその後、光秀は朝廷、京都五山、大徳寺と吉田兼見に銀を献上しています。朝廷の公家たちと五山の僧侶たちは、1日の茶会に来賓していたと思われます。また大徳寺は、大規模な茶会を開く手助けをしたのでしょうか?この日の茶頭に宗久や宗及ら堺衆の名前がないところを見ると、大徳寺の宗徒が茶事を進行したとも考えられます。そして吉田兼見は勅使として、朝廷と明智を結んでいました。どうやら役者は揃っていたようです。
しかし、明智光秀は天下人とはなれませんでした。羽柴秀吉が異常な速さで中国から戻って来たのです。6月4日に備中国高松城の毛利輝元と和議を結んだ秀吉は、2万以上の兵を引き連れ即座に反転、6月13日までのわずか10日間で実に230キロ以上を行軍して、京都山城国山崎まで戻って来たのでした。世にいう中国大返しです。
天正10年6月13日、明智光秀軍1万5千と羽柴秀吉軍2万が山崎で激突しました。天王山の戦いです。結果は秀吉の大勝利でした。明智光秀は敗走中、落武者狩りの土民に殺されたと言われています。

◯待庵
NA:秀吉は戦勝後も山崎に留まり、京都に睨みを利かせながら、天下を伺っていました。その間の慰みとサロン活動の場とするために、利休を呼んで茶室を造らせました。確かな利休作の茶室として唯一現存する待庵です。その屋根は切妻造(きりづまつくり)り柿葺(こけらぶき)で、地下窓があります。二畳だけの内部は、角に炉を切り、室(むろ)床(どこ)という床の間をもち、いわゆる数寄屋造りの原点といわれています。
秀吉:宗易、ワシと初めて会うたときのこと、覚えとりゃあか?
利休:あれは信長様ご上洛の折、河内国の飯盛山城でございました。
秀吉:あのときのこと、ワシはよう思い出す。飯盛山から見た大坂、堺、海を挟んで淡路まで、美しかったのう。
利休:ほんとうに。
秀吉:あんな上機嫌で嬉しそうな上様は滅多ににゃー。ううっぐぐぐ。信長様、もう一度お会いしてえよぉおお。
利休:はい。
秀吉:実はな宗易、ワシは天下が落ち着いたら大坂石山本願寺の跡地にでっけえ城を築き、日の本の要にしようと思うとるのや。ワシは大坂から天下を司る。
利休:秀吉様ならばあるいは、いえ必ず出来ますでしょう。
秀吉:うむ。そして帝をお茶にお招きしたいのじゃ。いやもちろん、ワシが宮中に出向いても良い。
利休:それは畏れおおきこと。
秀吉:百姓の小倅には無理だと申すか!控えよ!
利休:ハハッ!
秀吉:いや、そうかしこまるな宗易。どいつもこいつもかしこまるが、腹の中は分かったもんじゃにゃー。おみゃーにまでかしこまられたら、ワシは己を見失う。そう思うてこの待庵を作ってもろうたぎゃー。清州での会議でワシは織田家の正統な後継者とはなったが、まだまだ安心できん。近いとことでは伊勢やら越前、そのうち九州も落ち着かせにゃーならん。しかし武家同士の争いの間に公家に足を引っ張られるのも不安なことじゃ。そこでじゃ、なるだけはやーうちに帝とお会いしたいのじゃ。
利休:これは弱りましたな。
秀吉:そうかあ、やっぱりなあ。
利休:秀吉様、そうではございません。秀吉様は武家の頭領である信長様の後継者、帝にお会いする資格に不足はございません。ですが難題は侘茶そのものでございます。
秀吉:どういうことだ?
利休:そもそも詫び茶はワビ・サビの心を尊ぶことはご存知の通り、古びた道具にも味わいや美しさを見出す境地にございます。
秀吉:さよう、それは知っておる。
利休:しかるに、帝は神でおわします。神道では常若(とこわか)と言い、神は新しきに宿ると申します。すなわちワビやサビを穢れとして嫌うものではないかと推察いたします。
秀吉:なんと?
NA:利休は、後に『利休好み』と呼ばれる侘茶の古びた道具や茶室の侘しい佇まいそのものが、神道において『ハレ』でなく『ケ』に分類されるのではないかと危惧しているのでした。もっと言えば、侘茶は公家のクラシックに対する武家や商人のロックだったのです。しかし、もし一度でも帝から『ケ』として拒否されたなら、侘茶そのものの崩壊を招きかねません。
秀吉:あいわかった。だが宗易、この難題、そなたの知恵で解決せよ。出来なければ今後茶会を開くことまかりならん。

◯大徳寺あたり
NA:途方に暮れて、大徳寺にある三好長慶と織田信長の墓を参った利休は、その帰り道、隣の南蛮寺から流れてくる賛美歌に耳を傾けました。利休はキリシタンではありませんでしたが、弟子の多くがキリシタンでした。また三好長慶の家臣にも多くのキリシタンがいたと言われています。織田信長もキリシタンには寛容で、羽柴秀吉も1587年にバテレン追放令を出すまでは、柔軟な対応を見せていたました。
回想・信長の声:黄金の国ジパングじゃ。バテレンでは日の本のことをそう呼ぶらしい。
利休:黄金の国ジパング・・。
NA:天王山の戦いの後、安土城天守閣は火災に遭い焼失してしまいました。利休はあの黄金の間を再現できないだろうかと考えました。それは涅槃であり桃源郷でありキリシタンが説くところの天国です。信長が望んだ世界でした。
利休:天国・・常若・・黄金の国ジパング!そうだ、これだ!
NA:天正13年(1585年)10月秀吉は関白就任を記念して禁中茶会を開き、正親町(おおぎまち)天皇にお茶を献じました。このとき利休は天皇より正式な居士号として利休を賜り、秀吉の補佐を務めました。そして利休はこのとき、道具は全て新調したものを使いハレを演出しました。さらにその三ヶ月後、天正14年の正月に再び禁中茶会を開き、今度は禁裏に組み立て式の黄金の茶室を持ち込んだのです。それは侘茶に常若思想を持ち込んだ画期的なものであり、黄金の安土・桃山文化の口火を切るものでした。この黄金の茶室に関して、利休の制作であることを裏付ける確証はありません。単なる秀吉の金ピカ好みと揶揄する説もありますが、この時代の日本を表すのにピッタリの色だと感じます。まさに黄金の国ジパングです。しかしこの秀吉と利休の蜜月に影をさす事態が起きました。天正14年(1586年)、豊臣秀吉は石田三成を堺の代官に任命し、堀を埋め始めたのです。
最終話につづく

作・演出:岡田寧
出演:
 千利休⇒西東雅敏
 茶屋四郎次郎⇒濱嵜凌
 徳川家康⇒梅崎信一
 羽柴秀吉⇒小磯勝弥
 ナレーション⇒大川原咲
選曲・効果:ショウ迫
音楽協力:H/MIX GALLERY・甘茶
スタジオ協力:スタッフ・アネックス
プロデューサー:富山真明
制作:株式会社PitPa

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