【言語化#1】産業発展によって高くなっていく理想とそのギャップに苦しめられる相対的貧困について
ビジネスチャンスという言葉をよく聞く。この言葉が成り立っているということはつまり、様々な場面やどんなに小さなことでもビジネスを見出す人たちがいて、商品やサービスとして展開していったという過去があったといことだ。
逆に言うといらないものも増えた。前までは適当なもので補えていたものもそれ専用の商品が出てきたり、サービスが複雑になっていったり。そうすると、「一人前」になることのハードルもどんどん上がっていると言うことでもある気がする。たくさんのお金を払って、いろんな品を揃えて、サービスも隈なく受けて、やっと「ちゃんとした何か」になれるのかもしれない。そのような気がした。
これが資本主義と産業発展の末の結果なのだろうか。
昔は良かったと口にする人は好きではないが、しかしながらそう言うことなのかもしれない。昔は助け合いで補えていたのがお金とサービスに変わっていったのもしかり。
猫用のキャリーバックを見ていてそんなことを考えた。猫用のキャリーバックなど、一昔前であれば段ボールで済んだであろうに。
「猫用のキャリーバック」をわざわざ買って使ってないとちゃんとした飼い主と認められない風潮になっていく社会は、私は受け入れがたい。
この「猫用のキャイリーバック」と言うのを分解してみる。「猫」用の「キャリー」の「バック」。ここには三段階でその専門性が付随されたと言えるだろう。いわば段ボールから3回のグレードアップが施された。
段ボール → バック → キャリーバック → 猫用キャリーバック
商品、サービス、何にでもお金がかかる時代だが、いらないものもその分増えていると感じる。その「いらないもの」を使うのが当たり前になって、逆に使ってない人を責めたり「ちゃんとしていない」と言われるようになっているのが現代なのではないだろうか。
それこそ若者が子供を欲しがらないのも、「ちゃんとした大人」と言う像がデカくなりすぎてると言う見方もある。質の高い教育、大学、人格形成など、「ちゃんとした大人」に育てないといけないという若者へのプレッシャーは経済的な不安に加えてさらなるおもしとなっている。
たしかに若者が子供を欲しいと思えないのもうなずける。
店番の人手が足りないからもう一人欲しいなんて時代ではない。あったかは知らないが。
これらがいいか悪いかと言う話ではない。産業が発展して便利なものも増えていいことだけじゃないと言うだけである。
何にでも側面はあると言うごくごくありふれた提言の一つでしかない。
産業や技術、経済が発展したことによって、人々の暮らしは豊かになった。便利な商品やサービスも増えた。しかしそれらを享受できることが当たり前になり、逆に出来ていないことが極端に悪く見えてしまうようになって、人々の生活、人生における理想が高くなっていった。その差異に苦しめられて超先進国の日本に住んでいながらにも豊かさを実感できないでいるのかもしれない。これがいわゆる相対的貧困と考察した。
ひとまず貧乏くさいことも愛すると私は決めた。
紅茶の出し殻は乾燥させて掃きそうじに使うといい感じにホコリを纏ってくれてやりやすい。猫を病院に運ぶのに段ボールを使ったっていいはずである。
そういったことも大事にしようと思った。