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絵について~「山本ニ三展」に寄せて~

今日は、久々に平日昼間にオフを取り、美術館を回ってきた。ジブリ作品「天空の城ラピュタ」「火垂るの墓」「もののけ姫」などの美術監督でおなじみの山本ニ三さんの展覧会。

五島・福江島出身とのことで、10年間かけて作り上げた「五島百景」の完成記念とのことであった。久しぶりの水辺の森公園、長崎県立美術館は、しっかし暑い(笑) そりゃ起きたのが10時頃で、11時ぐらいについたからお天道様は真上でございました。

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さあて。作品を見てみましたら・・・なんでしょうね。自然に涙が出てくる瞬間があり。ノスタルジックなものに対するそれ、というより、ここまで精緻に身を、心を削って作り上げた作品を前にしたときの感動というのでしょうか。よくぞここまで…天晴れなり…という気持ちからくる涙。

作品についてはお近くの方は是非お越し下さい。詳しくは「山本二三展 the Best 公式ホームページ」をご覧ください。

そこで思った。

人はなぜ、絵を描くのでしょうか。

娘「えー、しらん。好きやけんやない?」妻「描きたいけん」

・・・あんたたちよー似とる(笑) でも僕が求めている答えとはちがうな。

ごめんごめん、質問の仕方が悪かったのね。

人は写真、ビデオという機器を手に入れなお、なぜ絵を描くのでしょう。

宗教画のレンブラントや、ルノアールの「酸っぱい時期」といった、とても写実的な絵があり、その後の印象派の台頭、ピカソのキュビズム、ダリのシュール・レアリズム… すでにピカソの時期には写真が撮れるようになっていたわけですが。あと、昔なかったかな、映画の看板。チンチン電車のホームとかから見えるように立てられた、ペンキのやつ。映画館の入り口などにも飾ってありましたが、ポスターの写真そっくりに絵が描いてあったりして…職業画家ということでしょう。

もちろん、山本さんらはアニメーションの背景画や、ゲームの世界観を作り込むところから始めたりするわけで、いわゆる「画家」というのとはまた違った位置付けなのだけれど。それでも、本当に、それ自体が芸術作品のような背景画も数多くあり。「もののけ姫」のシキ神様の森の絵など、うおおお、という感覚でした。とにかく素晴らしい。精緻さも、実在しない色や光を表す表現方法も、心を震わせる。

残念ながらぴろ☆は絵心が…ない…ことはない。小学生のころ、「はしペン」といって、割りばしを削って墨汁つけてデッサンを描いていく、という水彩画のやり方で、学校のスケッチ大会で崇福寺の赤寺を描いて、「サクラクレパス賞」とかもらったもんね(笑) それに年賀状とか、余裕のあったころは、自分で色鉛筆で絵を描いて一枚一枚違うのを出したりしたこともありました。今から考えるとお子ちゃまな絵だったな。

だけど、本当に考えこんでしまった。たぶん写真で風景を取り込んで、それを加工して、ということで大抵の背景画はかける可能性があります。もちろんそれだけで、感動は与えられないと思いますが、ちょっとしたアニメの背景などは、それでも事足りるかも知れません。でもそんなことはしませんよね。うん、してないと思う。(アニメオタクというほどの熱量はないアニメファンなので、コアなファンの方には大変失礼なことをつらつら言ってるかもしれません。すみません。)

それをせず、あれだけ精緻な絵を描く、それこそ何時間なんてもんではなく、取材期間から入れれば何か月もかけて練っていく。それをしたい、と思う意味、それが「好きだから」だけなのか、そんなはずはない。奇しくも「火垂るの墓」の解説文を会場で読むことができました。山本さんはこの作品(小説)を読んで、ノンフィクションであるこのストーリーに衝撃を受け、同時にその感覚を絵に込めなくては、という思いで取り組まれたとのこと。従って、山本さんの描く風景画は、単なる風景ではなく、そのストーリーの世界に流れる空気をもまとってそこにある風景なのだと。

何となく納得した気がしました。テクニックとしての描き方もあるでしょうが、知識・技術を磨くだけでは感動は得られない。その描き手のもつ心・精神性・感性・思想といったものが磨かれ、描きたいと思うテーマに出会ったときに、表現が生まれるのかな。

んー、似合わない。ぴろ☆に似合わない(笑) いや僕も音楽をやっていますので、たぶんそういうものに似た感覚を、特にジャム・セッションの時には感じることが時々あります。もちろんど素人ですから、肝心の技術がおぼつきませんが💦 

我々の緩和医療も、たぶんに「アート」が必要だと言われるのは、つまりそういうことなのかも知れません。なぜか最近あんなに嫌いだった本を読むようになったのは、イイ兆候でしょうね。ちょっとスピリチュアル系、AI系、自己啓発系に偏っているけれど(笑) ではー。