本日記『じっと手を見る』
好きな作家のひとりである窪美澄さんの、『じっと手を見る』を読んだ。
富士山を望む町に住む介護士の日奈と海斗を中心に物語は進む。その他脇役たちの目線も含め、編ごとに語り手が変わりながら、彼らの人生が触れ合っては離れ、手を伸ばしてはふり払い、物語が綴られていく。
読後に思ったのは、どこまでも正直にまっすぐに生きていたいということだ。それで傷つくことがあっても、率直に、切実に生きていたい。そうしなければ得られない喜びがあるはずだから。大波にのまれそうになりながらも、ぎりぎりのところで得た酸素は身体のすみずみにわたりゆき、そして高い波の上から見る空は、街は、人々は、きっとうつくしい。
他者と深く関わることでしか、自分のことを深く知ることはできない。そして人と関わることでしか、得られない幸せがあると思う。
人と深く関わるためには、実直に向き合うこと。信頼を得たいのならば、まず自分が信頼すること。たとえそれで裏切られることになったとしても。弱みを隠さないこと。
弱さや不完全さを知れば知るほど、愛おしさも膨らんでいくと思うから。だって自分も弱くて不完全だから。ひとりでは完全ではないから。それが人間だから。だから人は、人と関わる。傷つけ、傷つき、突き放され、抱きしめられるのだと。そうやって向き合って関わり合っていった先にしか感じられない気持ちが、関係が、心の機微が、あると思うのだ。私は生きていくなかで、そういうものを感じたい。
展開にハラハラドキドキして面白いだとか、読んでいてハッピーになれるだとか、そういう類の小説ではない。そこにあるのは裸の言葉たちだ。生々しく、そのままで胸に届く。だからこそずっと心に刻まれる。実体験から得る学びに近いようななにかを得られる気がする。たぶんそれは、派手な演出や展開がなくても、綴られる物語の中で丸裸に描写されてきた心情や情景が、そこまでを読まなければ伝わらないような小さな喜劇も、読んだからこそ伝わる悲劇も、ぞんぶんに感じられるように、私たち読み手の気持ちを積み上げてくれるからだ。それはまるで私たちの人生のように。それほどに登場人物が生きているからだ。そしてそれは、それまでの人生を生きていないとわからない、「人には人の悲しみが、幸せがある」というところにまで思考を到達させてくれる。
最後に、朝井リョウさんによる本書の解説から、一部を抜粋して引用したい。
“そう、著者の小説は必ずしも、多くの読者が望むようなハッピーエンドとは限らない。だが、見知ったハッピーエンドとは違う人生だって、きっと、愛することができる。そう信じさせてくれる説得力がある。それは、誰もが祝福するようなハッピーエンドよりも強いパワーを持って、私たちの人生を支えてくれるはずだ。“
ぴろ
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