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映画日記『四月になれば彼女は』

原作の小説を読んだ作品が映画化したと知って、映画館で観てきた。

小説を読んだときも、すごく美しい文章だなと思ったのだが、
その美しさがそのまま映像になったような、美しい映画だった。

原作を読んだのは何年か前だったので、細かなストーリー展開は忘れてしまっていて、けれどあえて読み返すことはせずに、フラットな気持ちで観に行った。
メイン登場人物がみんな不安定すぎるというか不器用すぎるというか、生きづらすぎる!!と感じてしまって、感情移入できた、というよりは、そのメッセージ性に心と同時に頭をたくさん動かされた感じ。映像の美しさには惚れ惚れした。まさに原作の表紙のようだった。

「愛を終わらせない方法はなんでしょう?」

作品のキーフレーズにもなっていたこの台詞を聞いて、原作にあった文章をすぐに思い出した。

“愛を終わらせない方法はひとつしかない。それは手に入れないことだ。"

原作でここを読んだとき、私は、たしかに、とも思ったし、そんなことないよ、とも思った。正しいとも思ったし、間違っているとも思った。間違っているべきだと思った。だってこれがすべての愛に当てはまるのだとしたら、成就したその瞬間に、いつか終わることが決定してしまう。終わりの始まり、という言葉のように。そんな悲しいことがあるだろうか?でもたしかに、今私たちが生きる現代では、結婚に辿りつかない恋愛はどこかで別れという終わりを迎える。何人と付き合って愛し合っても、結婚する相手はたったひとりだけ。そして、たとえ結婚しても、3割以上が離婚するらしい。
その一方で手に入れなかった愛はーーー
私のなかでは、実らなかった恋はそれはそれで美化され、心の中の、鍵のかかった箱のような場所にあるような、そんな感じがする。開けなければ何も始まらない。けれどその箱を開けない限りは、なくなることはない。

【⚠️ここからストーリーネタバレを含みます⚠️】

映画では、精神科医である藤代のもとに、かつての恋人である春から手紙が届く。そこには10年前のその恋の記憶が綴られていた。春は藤代と見に行くはずだった世界各地の景色を見に世界中を旅し、旅先から手紙を送ってきたのだ。そして藤代はこの手紙を婚約者である弥生に見せる。
弥生はこう思っただろう。藤代と春の愛は終わっていない。終わらないまま失ってしまったから、永遠になってしまったと。一方で自分は今から藤代と結婚しようとしている。愛が成就してしまう。終わりが始まってしまう、と。そして弥生は結婚直前、「愛を終わらせない方法はなんでしょう?」の問いを残して、藤代の前から消えてしまうのだ。

【⚠️ストーリーネタバレ終わりです⚠️】

映画を観て、やっぱり私は、愛は形を変えて続いていくと思う。そもそも愛なんて最初から形のない見えないものなのに、そこに決まった条件や状態を求めてしまうことが間違っているのだ。愛はたしかなものではなくて、もっと流動的で、千差万別で、ぼんやりとした、でも強くて、たしかにそこにあるもの、なのだと思う。恋人としての愛が成就したのなら、その愛は家族愛となって続いていく。それはとてもすてきなことだよ。そう弥生に言いたくなった。

小説では藤代の気持ちにより近い立場で読んだが、映画では弥生の気持ちが近くにあった気がする。共感できるというより、より伝わってきたような。原作とは少し変わっている部分もあったようなので、その影響かもしれない。

物語とはまた別のところで思ったことがある。
本を読んでも、ストーリーや展開は時が経つと忘れてしまうけれど、
でもそのとき刺さった言葉とか、
呼び起こされた記憶とか、
読後に考えたこととか、
そこから得た学びとか、
そういうものは覚えているということ。
覚えているし、私の一部になっている。

本を読むと、自分が満たされていく感じがする。私のなかにある器に少しずつ、一滴ずつ、きらきらした水が満ちていくような気がする。

『四月になれば彼女は』
好みはわかれると思うけれど、美しい映画でした。私は原作の小説をよりおすすめするかな。

ぴろ


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