戯曲の面白さと演出の面白さは違う
上演演劇において、
戯曲、本が面白ければあとは技術の問題で、ほとんどの上演は成功するように思う。
演出とは、「深度」を調節し上演を成功の先の面白みにつなげていくための仕事なのではないか。
私は写真を撮ることを趣味としているのだけれど、
写真を撮る工程として、
どこ(なに)を被写体として撮るのか。
どこから撮るのか。
被写体だけを撮るのか、被写体とその環境も含めて撮るのか。
大雑把にはこの3つの選択をカメラのボディにレンズを取り付ける前に行う。
そのあと、一瞬を捉えるためのスピードや、明るさや「深度」を調整して、
一枚の写真データになる。
私は、レンズをつけるまでの選択は戯曲作家の仕事で、レンズをつけた後の選択を演出家の仕事だと考えている。
さらに言うと、
「一瞬を捉えるためのスピード」については振付家が、
「明るさ」については照明家が、提案したものを演出家が選択するもので、
「深度」は、演出家が調整選択をするものだと思っている。
(振付家がいない場合も多くあるので、演出家がスピード調整も担うことがあるけれど)
「深度」とは、写真撮影では「被写体深度」と呼ばれるもので、
どこまでを明確に見せるか。どこまでを被写体とし、どこからを前景や背景とするか。というもの。
「深度」が違うだけで、写真の印象がまるっきり変わる。
「原っぱでたんぽぽの綿毛をふいている女の子の写真」を撮ると決めたとして、
原っぱの奥の森まで鮮明に映る写真にするのか、
女の子の後ろはぼんやりと原っぱと森の緑と空の青が見える写真にするのか、
女の子の口元だけがしっかり見えそれ以外はぼんやりとした写真にするのか。
「深度」の調整と選択は、よく見える部分を意図的に作ること。
私はこの「深度」調整と選択が、演出家の腕の見せ所と思う。
戯曲にとても詳細な時代や場所や状況が書かれていたとする。
それを全て忠実に「深度」深く実現するのか、
「深度」浅く、あるところは具象的に、あるところは抽象的に差をつけて実現するのか、
どの程度の抽象、具象の具合か、調整し選択する。
俳優、美術、照明、音響、衣装、ヘアメイク、小道具、劇場、(映像)、
上演空間の中のバランスを感じ取り、観客の注意をどこに向けるかを決めていく。
戯曲に書かれた通りに忠実な建物を舞台に立て込んだが、全てモノトーンにした。衣装も時代や登場人物の生活にあった形にしたが、主人公以外の登場人物は全てモノトーンにした。
とすると、観客は意識せずとも色のついた主人公を目で追ってしまう。
または、主人公以外の俳優はストップモーションになり、音も消え、主人公は注目を集める。だとか。
戯曲には、「主人公は1人取り残されたような感覚になって…」と書かれているだけだとして、
演出家はどのようにそれを観客に見せるかを、どの情報が鮮明に目に入る状態にするかを選択する。
戯曲に本来書かれていた視点を変えて、演出する場合もある。
だけれどそれは、
「原っぱでたんぽぽの綿毛をふいている女の子の写真」を撮ろうと思っていたけど、
「たんぽぽの綿毛にだけピントがあった写真」にしたくなったと言うことで、
演出家は演出の仕事以外に、戯曲を原案として脚色したり、再構成したということになる。
なので別物。
上演に関わるもの其々と全ての深度を見極め、選択していくことが演出家の仕事で、
それによって、観客が面白みを上演演劇に感じられるかが決まってくると思う。
戯曲が面白くても、上演が面白くない時は「深度」調整選択を演出家が誤っている場合が多々あるように感じられたため、写真撮影の工程になぞらえて考えてみた。
写真を撮るのは独学の趣味なので、解釈が間違っているところもあるかも知れませんが、ご勘弁ください。