祖母が亡くなった

2022年8月3日(水)祖母が亡くなった。昭和2年生まれ、今年の8月末で95歳を迎える直前だった。私とちょうど5周り、60歳離れた卯年の祖母だった。

2021年末から体調は悪く、年明け、3月と何度か危篤状態に陥っていて、最近はあまり悪い知らせを聞かないな、と思っていたところでの訃報だった。

コロナ禍で施設に入ったこともあり、去る4月に一度お見舞いに行ったのが、実に3年ぶりくらいの対面であった。その時点ですでにほとんど意識は無いように見えて、手を握り返してくるのも本人の意思なのか反射なのか判別がつかない状況で、変わり果てた姿にショックを受けた。

幸いなことに、親族の死は20年近く前から現在に至るまでなかったこともあり、ある程度自律してから死を間近に控えた人と対面するのは初めてであった。そもそも、20年前も30年前もどちらも遠方にいる時に訃報を受けて遺体に対面しているので、初めての経験といったほうが正しい。



私と祖母の関係は親族の中でも、ある意味恵まれた関係であった。

このことを話すには少し遡る必要がある。今日の弔事を聞いて初めて知ったことも多いのだが、昭和2年に生まれた祖母は、いわゆるいいところのお嬢様で麹町に家を構え、4姉妹の末っ子であったにも関わらず、幼少期からビアノやヴァイオリンを習っていたという。しかも、当時の写真が数多く残っていたことからも、本当にお嬢様だったのだろうと想像がつく。

学もあり、多方面に才能があった祖母だが、ちょうど青春真っ只中に戦禍に巻き込まれ、勤労奉仕が増え、好きなこともできなくなり、いよいよ東京が危ないということで札幌に疎開した。札幌では裁縫を学び、疎開先、そして戦後もその技術を生かして仕事をしていたようだが、もし戦争がなかったらといったようなことを本人もよく口にして、戦争を嫌っていたそうだ。

その後、一気に時間は飛ぶが、3人の子をもうけ、そして、祖母が60歳を過ぎた頃、私が6歳のころに旦那さん(私から見た祖父)を心臓病で亡くした。

それからの30年、祖母が何を想って生きてきたのかを知っているわけではない。しかし、私の母を始めとした3人の子供たちは、祖父を亡くして以来、性格に難が出てくることが多くなったように感じる、ということをしばしば口にしていた。

祖母は実家の隣の家に住んでいて、祖母の家では叔父家族が二世帯住宅で住んでいた。それだけ親族が近くに住んでおり、ましてや自己主張の激しい家系ということもあってか、同じ敷地の中で、祖母を含む形での人間関係のいざこざや難しさが絶えなかった。誰か一人が悪い話ではないと思うし、避けられないことだったのでもあろう、と思う。

しかし、そんな最中、記憶が残っていないだけか、あるいは幸いにもあまり巻き込まれなかったゆえか、はたまた、就職を機に実家を出たおかげか、私自身は祖母との関係において嫌な思い出というものがほとんど残っていない。

これが、「恵まれた関係」ということの意味だ。



私にとっての祖母との思い出は、祖母の家にまつわるところがほとんどだ。

その中でも庭で過ごした時間は特別だ。栗を拾って栗ご飯を作ったり、焚き火をして芋を焼いたり、梅を収穫して梅干しや梅酒を漬けたり、柚子をもいでゆずジャムを作ったり、よもぎを詰んで草だんごを作ったり、当時はそれが当たり前だったが、思い返すと貴重な経験を多くさせてもらった。

そして、もう少し日常的な思い出としては、学校から帰宅して、両親の仕事が終わるまでの間、居間で大相撲を観戦しながらおやつを食べたり、仏間で一緒にトランプやパズルを教わったりした時間が思い返さえる。折り紙や工作のようなこともしていた気がする。

時に、祖母の家で夕飯を済ませてしまうこともあり、祖母は嬉しそうにご飯を分けてくれるが、実家で夕飯を用意していた母は面白くない表情をしていたのも覚えている。

いまこの歳になり、祖母を亡くそうかという、そして亡くしたことをきっかけとして思い起こされる祖母と過ごした時は、そのほとんどが二人きりで過ごした時間だった。

いままであまり自覚していなかったが、おばあちゃんっ子だったのかもしれない。



そんなおばあちゃんっ子だったと思われる私も、就職して実家を出たことを境に、当然祖母と過ごす時間も減り、徐々に疎遠になり、年に1~2回顔を合わせる程度までになってしまった。

コロナ禍の前に、施設に入った祖母にも、会いに行くチャンスがあったが、疎遠にしてしまっていたことの申し訳無さのようなものや、認知症が進行し始めているということの事実を目の当たりにすることが怖かったのか、なかなか足が向かなかった。

そうこうする間に、コロナが猛威を振るい、危篤の祖母の手を握るまで、会いに行くことはなかった。

書いている今でもやはり悔やまれる。何れ悔やむときがくるだろうな、ということは当時から思っていたが、当然の帰結だ。


そして、今日に至る。


知らなかったのだが、40年前に洗礼を受けていた祖母は、キリスト教式の葬儀で送り出された。相当に不仲な叔父たちも揉めることもなく、葬儀と火葬を終えて実家に戻ってきた。

実家に戻り、限られたメンバーで食事会が開かれ、故人を偲ぶ思い出話もそれなりに花が咲いた。一部、故人を偲ぶことから派生して、家系自慢のような流れや雰囲気もあり、またか、という気持ちもあったが、それはいつものことなので仕方あるまいと思っていた。

徐々にお酒も回ってきたところで、「私達の至らなさゆえに傷つけたこともあったが許したまへ」といったような節が話題に登ってきた。その場に居た両親、叔父夫婦たちが口を揃えて、あのフレーズは自分を重ねて涙したという話をしていた。そして、様々な不和が起きた中で、祖母とその子どもたちの双方に問題があり、傷つき傷つけられた、お互いに不完全であり悪いところがあったが、そのフレーズで反省するとともに改めて感謝の念が起きたというような話題となった。

言いたいことはわかる。両親を始めとして、色々と苦労していることは聞いていた。中には耳を疑いたくなるような行動を祖母が取った話も聞いている。親と子という関係上、一筋縄ではいかないことのほうが多く、両親・叔父夫婦は今日の葬儀をとおして、ようやく今までの感情に向き合えたのだろう、ということも想像できる。

しかし、祖母から多くを学び、いい思い出だけが呼び起こされていた私にとって、故人を偲ぶ場において、本人が居ないところで「お互いに悪いところがあった」という免罪符とともに涙する大人たちの間に、自分の居場所を見つけることはできなかった。

他の孫たち(姉や従兄弟・従姉妹たち)は私ほどは祖母との関係は深くなく、姉に至ってはどちらかというと祖母と母の関係性の延長やその真っ只中で傷ついてきた身であるため、自分と同じような境遇・心境の親族はおそらくいない。

そんな事実が改めて浮き彫りとなり、悲しみと、寂しさ、憤り、虚しさといったような感情が混ざったような気持ちになった。誰かを咎めるのも違うし、諭すのも違う。同じところに立っている人がいないのだろうな、ということを受け止めきれなかったのだと思うが、どう表現したらよいかわからない。

家を出る際に、遺影を持って帰る代わりに、遺影の元となった一枚の普通の写真を持って出てきたのが自分なりの小さな反抗と意思表明だった。


結局、このNOTEを書いている今も、この気持をどう表現したらいいのかわからない。むしろ、この書ききれないという事実を書くために、NOTEを書いている。

祖母を偲ぶ気持ちを書くわけでもなく、今を生きる親族との間でのよくわからない感情を書いた内容は褒められたものではないかもしれないが、この気持を書き留めておかなければいけないと思った。


2022年8月6日


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