【連載】韓国시티팝(シティ・ポップ)を味わう 〜第2回 日本のシティ・ポップ〜
こんにちは、pireumです。
連載とは?というペースですが、やっとこさ連載本編初回にたどりつきました。
前回書いた通り、本日は韓国シティ・ポップを味わう前段階として、
そもそも「日本生まれの音楽」シティ・ポップ、というジャンルがどのように形成されたかについて、かいつまんでお話しします。
「シティ・ポップ」というジャンルの形成
こちらも前回記事で述べた通り、シティ・ポップという言葉は、現在の日本において、
「七〇年代半ばから八〇年代にかけて流行した、都会的で洗練された雰囲気の和製ポップ・ミュージック群」(1)という意味合いで用いられています。
とはいえ、明確なジャンル定義というものはなく、
もっと言えば、表記揺れを含め、同様の音楽を示せる言葉はさまざまあります。
それでは、今ジャンルのように語られている「シティ・ポップ」は、
どのように誕生した言葉/ジャンルなのでしょうか?
①ニュー・ミュージックの誕生
シティ・ポップの類義語として最も古いと言えるものは、ニュー・ミュージックです。
『東京人』2021年4月号に掲載されている、牧村憲一、泉麻人(以下敬称略)の対談(2)によれば、
1970年代に登場した「自作自演の日本語のフォーク」に対する「新感覚の日本語ポップスというニュアンス」が含まれた言葉として、この言葉が用いられるようになったと見られます。
実際には、1970年代以前にも、「日本語ポップス」=欧米の音楽的要素を取り入れた日本語の歌は存在していました。
とはいえ、1970年代の歌謡曲界では、
「ユーザーは日本人であるから、サウンド(編曲)は洋楽サウンドであっても、メロディは(中略)日本の歌謡曲の原点である演歌のメロディをとり入れる」べきだ(3)、すなわち、日本人に耳馴染みのいい音楽を作ろう、
という意識があったと思われます。
またフォークソングも、商業的側面の強い「カレッジ・フォーク」と、
社会的・政治的意味合いの強い「関西フォーク」の2つの派閥がある状態でした。
こうした歌謡曲/フォークソングとは異なり、ニュー・ミュージックは、
・「日本らしい」編曲という意識が薄い
・政治的要素が薄い
・日本語の歌詞がつけられた(英語詞でない)
・シンガーソングライター形式(旧来の「歌謡曲」は、作曲・作詞それぞれの専門家が曲を作り、歌手がそれを歌うスタイルが一般的)
という、「今までの音楽とは違う」新しい音楽、とされていました。
②シティー・ミュージック
しかし、ニュー・ミュージックという言葉は、次第にフォーク系のシンガーにまで使われるようになっていきます。
そのため、より洗練された雰囲気の楽曲/歌手を指し示す新たな言葉が登場します。
とはいえ、これも感覚的な言葉なので、定義もなければ呼び方もいろいろあったようですが、
先の牧村のインタビューによれば、「シティー・ミュージック」がそれに当たるようです。
ただし、牧村の説明を読む限り、シティー・ミュージックは、
牧村も関わりのあったバンドであり、いまや伝説的に語られているバンド「はっぴいえんど」と、
同じくはっぴいえんどと関係の深かった人物による音楽のことを指すようにも読み取れます。
③ヤマハ出身者系列の音楽としての「シティポップ」
初めて「シティポップ」という言葉が現れたのは、モーリッツ・ソメによれば、1981年10月12日付の読売新聞です。(4)
しかし、この時「シティポップ」と言われていたのは、②のようなはっぴいえんど系列の人物ではありません。
ヤマハ音楽院の出身者である松下誠のアルバム『FIRSTLIGHT』のレビュー内で、
「洗練されたサウンドとソフトな松下のボーカルが見事に溶け合ったハイセンスなシティポップ」
と述べられていたのが最初でした。(5)
ここでの「シティポップ」は、ソメも指摘するように、
「豊かな若者層をターゲットに、洗練された洋楽的サウンドを作り出す若い世代のアーティストを売り込」むマーケティング用語、というニュアンスが強く含まれていました。(6)
ここでは詳細を省きますが、1980年代前半の若者といえば、
今よりずっと好景気な中、街での華やかな(というか陽キャな)生活を楽しめた世代。
そんな明るさや心地よさを備えた曲を、「シティポップ」(シティ「・」ポップではないのがポイント!)と名付けていたようです。
またこうした傾向の楽曲を得意としていたのが、ヤマハ音楽教室でお馴染みのヤマハでした。
ヤマハがかつて開催していた「ヤマハポピュラーソングコンテスト」(通称ポプコン)や、ヤマハ音楽院(昔はヤマハ・ネム音楽院だったらしい)という専門学校の出身者は、
性善説的な前向きさというか、華やかさ、陽キャさを感じる楽曲制作に強い傾向がありました。
④シティ・ポップのアーカイブ化
1980年代後半に入ると、モノが飽和した時代に突入し、同時に「イカ天」(三宅裕司のいかすバンド天国)に象徴されるバンドブームが起こります。
これにより、豊かで華やかな雰囲気を持つシティポップ/シティー・ミュージックは、少し古い音楽となってしまいました。
これは、言い換えれば「懐メロ化」です。
同時期に流行していたレア・グルーヴ(DJが、一般にあまり知られていない音源を探し、クラブ等でかける動き)の影響もあり、これらの音楽のコンピレーションアルバムが発売されるようになります。
さらに、2000年代に入ると、1980年代後半に音楽産業で働き始めた世代が、シティ・ポップの歴史を振り返る本を出すなど、ますますアーカイブ化されるようになっていきます。
この時点で、ニュー・ミュージックの登場からすでに30年ほどが経過。これらの音楽を「歴史」として振り返るのに十分な時間が流れていました。
そのため、こうしたアーカイブ化が進められる際には、当時の音楽業界の人々の関係性を丁寧に振り返り、いわば再文脈化されていきました。
こうした流れの中で、当時はシティ・ポップと呼ばれていなかったはっぴいえんどが「シティ・ポップの祖」と位置付けられ、
シティー・ミュージック(=はっぴいえんどとその周辺人物)とシティポップ(=ヤマハ音楽院に代表される音楽の系統)がいっしょくたにされていったと考えられます。
⑤「シティ・ポップ」を参照するアーティストの登場
多くの文化において、「歴史」と言えるほど昔の文化になると、大抵その文化をある種の「伝統」や「真正性」あるものとして捉える人が出てきます。
シティ・ポップも類に漏れず、2000年頃になると、「ポッと出の音楽ではない、歴史ある音楽」のような印象が出始め、
アーティストが参考にする音楽として、一定の支持を集めるようになりました。
キリンジやサニーデイ・サービス、もう少し最近のバンドだとnever young beachなどは、こうしたシティ・ポップ参照(正確にははっぴいえんど参照と言うべき?)のバンドとして捉えられます。
⑥「なんかオシャレ」を表す「シティ・ポップ」
2010年代に入ると、「シティ・ポップ」の呼び名が定着し始め、さらに意味が拡大していきます。
つまり、「なんかオシャレで都会的な音」全般が「シティ・ポップ」と呼ばれるようになってきたのです。
代表的なのは、SuchmosにNulbarich、Awesome City Clubなど。
はっぴいえんどや竹内まりや、松下誠にキリンジなどなどと聴き比べてみれば、正直共通点はほとんど見つからないと思われるのではないでしょうか。
実際のところ、ロックに基盤を持つはっぴいえんどやキリンジ系列、
活動初期はアメリカン・ポップ路線だった竹内まりや、
AOR寄りな松下誠、R&B系のNulbarichと、音楽ジャンルとしてはバラバラなのです。
それでも、ここまで挙げた①〜⑥の系譜にある音楽は、「シティ」という言葉の響きが持つオシャレさ、キラキラ感、今っぽさのイメージとともに、
ざっくりまとめて「シティ・ポップ」と言われています。
これが、今の日本のシティ・ポップの全体図です。
「シティ・ポップ」≠「City pop」≠「시티팝」
このように、今日本で「あなたの好きなシティ・ポップのアーティスト/曲は?」と聞くと、
年代もジャンルもバラバラな答えが返ってくる状況になっています。
ところが、欧米(主にアメリカ)の「City pop」好きコミュニティを対象とした調査や、
韓国大手ストリーミングサイトの「시티팝」プレイリストを見ると、
それぞれ日本とは異なる傾向が見られます。
そして、それぞれはある程度似たような傾向…言い換えれば、一つの「ジャンル」特性を持っている、と言えるのです。
つまり、日本のシティ・ポップと、他の国のシティ・ポップは、全くの別物として捉えられます。
では、それぞれの国で「シティ・ポップ」的と見なされている音楽は、どのような音楽なのでしょうか。
そして、なぜそのような音楽が、その地域で「シティ・ポップ」的だと思われるようになったのでしょうか。
次の連載では、まずアメリカを中心とした欧米コミュニティにおけるシティ・ポップについて、もう少し詳しく見ていく予定です。さあ、書き上がるのはいつになることやら…。