『止められるか、俺たちを』(2018)
脚本 井上淳一
演出 白石和彌
出演 井浦新、門脇麦、山本浩司、藤原季節
白石和彌作品を、オレは嫌っている。
大体においてバイオレンス・シーンが無駄に長く、いたずらにしつこく、スリルや緊迫感を生むよりは白々とした嫌悪感を呼んでしまう。
冒頭でサディスム・シーンをエンエンと展開する『死刑にいたる病』が、その典型だった。主人公の変態性を嫌と言うほど見せつけられて、稀代の人たらしという設定にさっぱり説得力が伴わず、ストーリー全体を破綻させていた。
そんな白石作品にも、たまにバイオレンスと無縁なものがある。長編デビュー作の『ロストパラダイス・イン・トーキョー』は、底辺で暮らすダメ男サラリーマンと地下アイドル兼デリヘル嬢のささやかな愛を描いて、妙に胸迫るものがあった。内田慈という演技派の名女優と出会えたのは、あの映画のおかげである。
『止められるか、俺たちを』という映画も、バイオレンスとは縁がない。白石和彌が師事した若松孝二監督の、60年代末から70年代初めに掛けての活動を回顧する内容だ。
1960年代とは、世界史上空前絶後の自由で建設的な10年だった。ロック・レヴォリューションは音楽にとどまらず、あらゆる文化の既成価値観に異議を突きつけ、高校から大学まで覆い尽くした学園紛争の火は煮詰まったヒエラルキーの土台を焼き払い、新宿フォーク・ゲリラは公共の空間を大衆に開放した。
あのころは、空気がキラキラ輝いていた。
あの美しかった空気を、映画は懸命に再現しようとしている。観光地化する前の新宿ゴールデン街のバーで、若き日の若松や足立正生や大島渚や荒井晴彦や赤塚不二夫らが青臭い議論に口角泡を飛ばし、時には殴り合いにも発展する光景が楽しい。
ただしこの当時、白石監督はまだ生まれてもいなかったし、脚本の井上淳一が若松プロに参加したのもずっと後だから、これは本人自身の回顧譚ではない。当時を肌で知る当事者ではなく、伝聞で描写しているための脆弱さ、現実感の希薄さといった弱点を完全には否定できない。
さらに、パレスティナへ撮影に行ったのち、足立正生が拘束されたり若松プロがガサ入れに遭ったりといった官憲との軋轢はまったく除外されている。70〜71年当時は連合赤軍事件の反動で世間が新左翼から離反し、すでに70年代の閉塞感が忍び寄っていたのだが、そうした気配も描かれていない。そこまで深掘りするのは商業映画では無理だったのかもしれないが。
ともあれ、あの自由で寛容な空気は、高度経済成長を突っ走る日本が生んだ余裕だった。いまジリジリと貧困への坂を下り続ける日本で、あの空気の再現は不可能だ。だからこそ、あの輝かしかった時代の思い出がいやましに胸を噛む。
出演者では、門脇麦の存在感が圧倒的。フーテン上がりには全然見えないが、彼女の表現力には、多少の齟齬を押しつぶしてしまう圧がある。
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