生き延びるために致死量の共感力を得た話
MBTI診断というものが認知されてから久しい。無料でできるあれだ。本家のものは有料でかつ診断する度に変化することはないそうなのだが、"MBTIといえばこれ"とばかりに今日では一般的にその名で認知されはようになった16personalitiesの方だ。面倒なので以下そちらの診断を便宜上、MBTIという。初めて僕がMBTIを試してみたのが2019年だったと思う。外国語を何も考えずに直訳したような、微妙に分かりにくい日本語による質問に答えて最後に現れたページにはINFP(仲介者)の文字があった。そのときに僕自身がINFPの特徴をどこまで理解していたか分からないが、「ぼっちメンヘラ構ってちゃん」という性格像なのだという印象は受け止めた記憶があるし、間違ってないなと認めたのも覚えている。
2019年といえば、2021年に自分史の上ではかなり大きな出来事が起き、パラダイムの大きな変容が起こった年より前の頃。2021年より前を自分で勝手にmy紀元前と呼んでいる。僕の中にキリストはまだ生まれてなかったのだ。誰も救われない、報われない。まさに「奇跡も魔法もないんだよ」状態だった。さやかちゃんも絶望するし、ほむらちゃんが時を戻すのをやめて全部諦めるような世界線だった。「ねえ、この世界って守る価値あるの?あたし何の為に戦ってたの?教えてよ。今すぐあんたが教えてよ。でないとあたし…。」2021年はキリストの誕生というより、ワルプルギスの夜と言った方がいいかもしれない。けどそれがあったから、その頃より少しマシな今の人生を歩むことができているわけだし。my紀元前の僕は今より心に堅牢な壁を作っていて、他者に対してあまり興味もなければ期待もしないタイプだった。さしずめパルシェンってところ。れいとうビーム!それゆえ、自分で作り出したかなり偏った価値観で物事を判断したり、行動の根拠としていたので傍から見るとものすごく近づきにくい人だったと思う。いわば社会不適合者。INFPの人全てがそうだと思わないけど、この6文字がとてもしっくり来る。
2019年頃は今ほどMBTIに関するコンテンツは見かけることがなかったように思う。僕がSNSにほとんど手をつけてなかったのもあるかもしれないが、昨今ではYouTubeでも InstagramでもXでも、詳しい性格考察や相性、適職やあるあるなど、MBTIについてのコンテンツで溢れかえっている。それらを見ているだけで時間が無限に流れ、もう8月は終わっていくし君を乗せて地球は回るし人はいずれ死ぬだろう。ちなみにこの夏、僕はラランドにちょっとハマった。ラランドのYouTubeでもMBTIを取り上げていた回があり、メンバーの西田はKTFRだったようだ。KTFRはケツ粉瘤のことだそうで、まあMBTIの診断に乗じて西田の悪口を言うという企画だ。この動画は何度観ても面白かった。
my紀元後の2023年頃に改めてMBTIをしたのは、my紀元前2019年よりにわかに流行していたのを感じたからだ。流行に乗っかろうというタイプになったのも、2021年のパラダイムの変容に起因しており、かなりミーハーな性格に変わったと思う。その時にはENFP (運動家)となっており、その後何度もしていると時々ENTP(討論者)になったりENTJ(主人公)になったりしたが、ENFPが圧倒的に多かったのできっと自分はENFPだと思ってる。INFP時代と比較して後ろ3つのN(直感型)、F(感情型)、P(知覚型)に変化はなかったが、興味関心の方向や根拠を示すI(内向型)がE(外向型)へと変化したようだった。そんなENFPの性格を一言で言うと、明るいメンヘラらしい。明るいメンヘラ。2軍陽キャとか自由人とか社交的とかいろいろ言われているが、僕が気に入ってるのは明るいメンヘラ。言い得ている。結局メンヘラなのかと思うが、このメンヘラの正体はN(直感型)×F(感情型)の組み合わせに起因するのではないだろうか(このNF型などアルファベットの意味やその解説はネットの海の上に膨大な量が漂っているのでそちらを参照ください)。
さて、今日は9月1日。世間では防災の日と言われており、1923年9月1日に発生した関東大震災はマグニチュード7.9だったとか。そして記憶に新しい2011年の東日本大震災の東北地方太平洋沖地震がマグニチュード9.0、死者行方不明者2万2千人だそうだ。なお、関東大震災の死者行方不明者は10万人を超えるらしい。怖すぎる。当時はぽぽぽぽーんしか流れないTVも非日常というか世紀末感がすごくて怖かった。データ上における数値を見ると、マグニチュードと死者行方不明者の因果関係だったり、当時の都市機能や地域的な被害者数の理由など、ついこれらの大災害を過去の事象として比較したり、今後の災害の被害を推計するための出来事と数として捉えてしまう。来たる南海トラフ地震の発生に対する被害の低減に努めるべく、研究機関の人たちは日々収集される地震のデータ解析に追われながら、僕たち一般のPeopleのために働いてくれていると思うと頭が下がる。そしてこの僕が今日もブツブツと独り言をnoteに綴っていこうとしているのはもちろん地震のことではない。9月1日は僕にとってのXデー。そう、例の母の誕生日である。
自分の母親の誕生日というちょっとしたイベントの日に、世間の人たちは何をするのだろう。誕生日プレゼントをあげる、いつもよりちょっといいディナーを家族で食べに行く、いつも家事をしてくれているお母さんの代わりに家のことをしてあげるあたりだろうか。離れて暮らしている人は誕生日おめでとうLINEや電話を忘れてはならない。……絶対に忘れてはならない。そうなのだ、昨年の今日9月1日は僕がやらかしてしまったのだ。母への誕生日おめでとうLINEを送り損ねていた。結末から話すと、その後同居している叔母から連絡があり、端的にそこで教えてもらったことを言うと「めちゃくちゃ機嫌悪くなってるから"遅れてごめん"、"誕生日おめでとう"って送ってあげて」とのことだ。要請が来てしまった。叔母からのメッセージにはそれ以下でもそれ以上でもない内容だったので、実家で母がどのように不貞腐れていたのか予想がつかない。その日のうちに恐る恐る母にLINEした。「遅くなってごめんなさい。昨日の誕生日おめでとう。」と送った0.1秒後に既読がついたのを記憶している。光はもっと速いと思うが、とりあえず光のような速さだったと感じた。返信までは少し間があった。お母さんと呼ばれる層の中で、一定の年齢を超えた層の人たちは文字入力がやや苦手で時間がかかる、あるいはちょいちょい間違えて入力した文字が混ざるという現象が起こるのだ。母からの返信がこちら。
というわけで、9月1日は"防災の日"である。どうでもいいが、何年か前の防災の日に母にTシャツをプレゼントしたのだが、趣味が悪いと一度も来ている姿を見たことがない。それ以来、誕生日プレゼントは渡していないがたまに「なんもくれないのね」と言われる。そろそろ僕も怒っていいだろうか。あとどうでもいいけど、僕はなんか常にフラフラしている。フラフラというかゆらゆらというか、物理的に四六時中なんか身体が揺れている。これが本当に揺れているのか、心理的にそう感じるだけなのか分からないまま、今日に至っている。あとなんか他の人より心臓が体表に近いところにあるような気がする。故にわりと拍動を意識しなくてもよく感じる。不整脈なのも実は健康診断前から何となく気づいていた。不整脈っていろいろあるが、「1・2・ 3 1・2・ 3」のタイプだ。3拍目がちょっと遅れるので自分で勝手にウインナワルツみたいなものだと思ってるし、オーストリアの血が流れていると自負している。オーストリアには行ったことがない。そんなこんなで常に小さくパーソナリティな地震が起き続けているイメージなので、たまに本物の地震なのか迷うことだってある。
そんなこんなで日夜、母という避けられぬ天災のそばで育った僕はきっと他の人よりも防災意識という名の共感力は正直言ってバチクソ高いと思う。ミスったら天災級の災害が起こる。ノアの洪水かもしれない。方舟など存在しないタイプの神話だ。人の考えていることを見抜く能力はその辺の人の比じゃないし、その人が言いたいことしたいことがわかってしまう。感動的な映画とか観るとすぐ泣くので疲れるのであまり観ない。すーぐに切ない恋をする登場人物に共感しちゃう。そんな感じなので共感力はメンタリストという人達より秀でていると自負している。というかそもそもメンタリストって何?と思ったので調べてみたところ、「心理学に基づく暗示や倒錯を駆使し、常人では考えられないようなパフォーマンスを発揮する人たち」のことらしい。良く分からないが、彼らはきちんと心理学を中心に勉強したり研究した上で、人の心を見透かしたりコントロールしたりするのだろう。これを悪用すると詐欺師ということになるのだろうか。詐欺師で思い出したけど、職場にいる主任に詐欺師みたいな人がいる。以前登場した人の良いムーニーマン主任ではなく、僕の直属の主任だ。彼の言葉をジャグリングする能力こそが詐欺師レベルだった。気づいたら相手のペースに飲み込まれて要求に納得しちゃう。そんなペテン師神より与えられた言葉を扱う才能を持つ主任はモノの例えが秀逸だ。そして何故か最終的にウンコの話にすり替えられる。何年か前に、僕が適切に確認しておかねばならないことをうっかりスルーしてしまったことに起因する、それはそれは大きなミスがあった。いまだにトラウマ。しかし当時まだ今よりちょっとだけ尖っていた僕は、自分のミスを素直に認められなかった。認めてしまうと一瞬でTHE ENDとなるほど、ギリギリの自己肯定感で日々をやり過ごしていたため、そのミスを誤魔化そうとしたらさらにひどいことになってしまった。そのことで主任に叱責を受けた。どんな内容か覚えてないが、最終的には「ウンコは紙で拭き取ることでまだついているか否かがわかる。ついていないと思ってもまだ付くことだってあるから、仕事の確認は怠ってはいけない。」というシュレディンガーの猫ならぬ"シュレディンガーのウンコ"で話は終わったような気がする。確かに"そこ"に張り付いているはずであるがトイレペで拭いて目視するまでは観測不可能であるため、そこに存在するかどうか誰も知らないのだ。その後も、何かとその主任の話は最終的にウンコに辿り着くことが多いので、ウンコ主任と呼んでいる。そんなウンコ主任は、相手の考えていることや言って欲しいこと、あるいは言われたら凹むことまでかなり的確に突いてくるという特技を持つ。けどこれは共感ではなさそう。相手の表情や発言をかなり正確に観察した上で策略的に言葉を選んでいる。一ミリも共感などしてないくせに、他人の心を読みやがってチクショー!!と思いつつ、欲しかった言葉を何食わぬ顔で言ってのける心地よさに信頼を寄せる人物の1人でもある。論理的な人たらし、それがウンコ主任だ。
さて、僕の職場にはごく稀にとんでもなく非常識な人が現れる。3年ほど前にもとんでもないおばさまが現れた。どの辺がとんでもないかと言えば、一定のルールに則ってデータ処理をすべきところを、"完全マイルール"で処理していたため、顧客からクレームが来る。そしてその顧客に対してヒス対応をぶちかます……という人だった。そしてすべくして勃発したウンコ主任vsマイルールおばさん。彼らの会話を何となく聞いていたのだが、ウンコ主任の巧みな言葉選びと、おばさんが反論できなくなるようにどんどん理論の行き止まりに追い込んでいくのが見てとれた。…聞いてとれた?分かんない。ウンコ主任の圧勝であった。ウンコ主任すげぇー!
ところで、共感力の話をしていたのにどうしてウンコ主任の話題になったのか自分でもよくわからなくなっている。時を戻そう。
メンタリストみたいな心理学に長けている人とも、ウンコ主任のように論理的思考の強い故に相手が何を考えるか分かってしまう人とも「共感力」で彼らに秀でているというのはなんか違うかもしれない。彼らは共感してなくても人の心理は読み解くことも可能だろうし。僕の身につけた共感力は心理学を学んだとかきちんと理論として学術的、体系的に得たものではない。実践的なフィールドワークで培った、なんて言うと大学院生みたいでかっこいいけど実際は母(poison MOTHER)と過ごした18年間で嫌でも身につけざるを得なかった共感力である。野生動物が自身の命を守るため、今日を生きていくべく磨かれた直感、それと似ている。いやほぼ同じだ。常に一つ屋根の下に暴君がいる。母だ。僕の母がヒス構文の使い手であることはこれまでの話題に出し尽くしているが、彼女はそれだけではない。暴君ディオニスである。走れメロス!いや、逃げろ僕!高校生の時に進路のことで揉めた時に朝から胸ぐらを掴まれて壁際に追い込まれた。小学生の頃に弟と喧嘩した時、夜の山に捨てられた。車で連れて行かれて10分くらい本当に放置されたあと回収された。父方の実家のある島の中の山なので、熊や猪などの獣はいない。一応、安全には配慮された山に捨てられた。このような、虐待とは言わないが、現代ではギリアウトなのでは?みたいなことを数々引き起こしてきた暴君だ。まあ逆に僕が小学校の先生に理不尽なことされたときには、バッチリ乗り込んでいって当該教師を弾劾したりと心強い時もあったけど。そんな暴君の機嫌を損ねては自分にどのような厄災がふりかかるか分からない。いかにして自分の身を守るかといえば、言うまでもなく暴君の機嫌を損ねないこと。このことに幼い日の僕の生活は全振りしていたため、二十歳のころにはカンストしていた。「痛いのは嫌なので防御力に全振りしたいと思います」というアニメを見たことがあるが、気持ちはあんな感じ。怒らせると怖いので共感力に全振りしたいと思います。
共感力がなくても別にディオニスからの厄災は防ぐことはできたと思う。それこそ、過去のデータを読み解き震災を予報するかと如く、母の過去の動向を考えて、言動から心理を読み取り、次どんな厄災が降ってくるか予想すれば良いのだ。だが、あまり要領の良くない僕がそんな器用なことはできない。ちなみに要領のいい弟はそれをやってのけていたと思う。ついでに兄である僕というサンプルがよくよく失敗経験を披露していたため、なおのことリスクマネジメントは上手だと。市役所で働いているのだが、一時期は危機管理課にいたらしい。さすがだ。不器用な僕に残された道は、自らの中に母の分身を作り出し、心の中の母に問うという手段のみだ。今、母は何を考えており次どのような言動が巻き起こるのかを、想像する。人間の脳は普段は20%ほどしか使用しておらず、残りの80%はサボっているらしい。僕はきっとこの80%もフル稼働して想像という想像を行い、自分の中に母の分身を作り出すことに成功したのだ。内なる母に問いながら、日々の危機を回避するのに費やしていた。
内なる母とか、スピリチュアルっぽいな…。
「さぁ!第3のチャクラを開きながら、あなたの内なるマザーの声に耳を傾けて…」
対象の分身を自身の内側に作り出すことは、大人になった現在でも非常に役に立っているスキルだ。どの職場でも現れると思うが、僕の職場にもクレーマーみたいな人たちは現れる。この手の人たちって人への優しさを捨て去って自分の我を通しまくる。死ねばいいのにって思ってる。正直に。僕の理想の世界はお互いができるだけ嫌な思いをしなくていいように、少しずつだけ我慢しながら生きようというモノであるので、クレーマーなんて僕の世界にはいて欲しくないのだ。僕が神様だったらそんなクレーマーなんて一番先に追放してやる。ゴッドエネルみたいに感電させてやる。そして言いたい。「我は神なり」なんて。全然関係ないけど、中学生ってみんな厨二病発症すると思う。僕もしっかり目に患っていた。当時はONE PIECEにどハマりしていたこともあり、自分で食べるなら○○の実で、麦わら海賊団に入ったらゾロと一回やりあって…というドリームを見ていた。恥ずかしい。けどONE PIECEの世界の能力もらえるならハナハナの実欲しいな。ロビンのやつ。ロビンかわいいよねロビン。闇深いけどルフィたちに救ってもらえて明るくなったの良い。初期の悪女感も嫌いじゃないけど。手をいっぱい咲かせられるの便利そうで良いな。座ったまま何でもできそうだし、ガチャガチャのカプセルに中身詰め込む内職とかならとても効率よく作業できるからかなり稼げるんじゃないかな。
まあそんなクレーマーの中に常に訴えかけるタイプな人が現れるんだけど、その人たちは自分がいかに可哀想な存在であるかということを初手で確定させてくる。その上で要求を申し出るのだ。クレーマーに対応する時に僕は、そんなクレーマーの人たちの分身をも自分の内側に作ってる。クレーマーの分身からその心理を読み取り、言いたいことを吸い上げてあげながら解決に向けて話を滑らせていけばわりとパパッと終わるから楽なのだ。これはすごく便利な機能であるなと自負している一方、大きなマイナスになることもある。クレーマーの中には、先のように自分が可哀想な立場であることを定理づけたのちに、こちらに猛攻撃を仕掛けてくる人がいるのだ。「だからヴァナータが悪いんじゃナーイノ!?!」みたいに。イワさん。言うなればそんなクレーマーは鬼滅に出てくる半天狗と一緒だ。「可哀想な儂になにするんじゃー!!!」ってテンションでけしかけてくる。そんなクレーマーの分身を作ってしまうとその分身からも自分に攻撃が当たってしまう。分身を通してクレーマーの言うことを予測するのだが、たまに外れる。すると分身と本体からそれぞれ異なる攻撃が繰り出されることになる。積怒と哀絶から同時攻撃されるような感じ。可楽と空喜のペアかもしれない。心の中に甘露寺さんを住まわせて撃退したいし、早く炭治郎助けに来てくれないかなと思いつつ、クレーマーが帰るころには僕のメンタルのHPはゼロになる。情けないことに、この瞬間に翌日の体調不良は確定なのだ。酷い時はクレーマーの魔貫光殺砲を喰らって休職したこともある(マジ)。
このように、分身を自身の内側に生み出す僕の共感力は高すぎる強すぎるを通り越して、もはや致死量だと感じている。ゆえに他人よりメンブレをしやすい体質なので非常にこの社会は生きづらい。ただし、この共感力のおかげで例えば一緒に遊んでる友達が何をしたいのかとか何考えてるのかということを、多分他の人より容易に想像することができるため、一緒にいて心地よいと言ってもらえることも多い。特にレディースのみなさまないしまマダムの方々にはお褒めの言葉をいただける。「女性のエスコートが上手ね」と。それはそれでありがたいし、重宝してる。たまにこの能力が機能しない時があって、その時にだいたい自我の方が大きくなってしまい、
友達失うこともあるけど。つらい。そういえば「女王」という異名を持つピアノの先生に習ったこともあったが、一緒にレッスンを受けた友達がズタボロに怒られていたのに僕はあまり怒られたことがない。彼女も一流の指導者であるためもちろん厳しいことは言われたが怒れることはなかったのだ。それと高校の時の女古典教師。いつもゴスロリファッションに身を包んでおり、授業中に自作の古文法助動詞の歌を歌うよう強要してきて詰まったらめちゃくちゃ怒るという人がいたが、僕が歌えなくて詰まってもそういえば怒らずにそのあと詰まった友達にブチ切れていた。その古典教師は白いゴスロリ服の日と黒いゴスロリ服の日があったのだが、クラスメイトと服と彼女の気性についての法則を考えたりしたが、どっちの服でも大体ブチ切れると言うことが明らかになった。
これらの原因は考えても推測の域をでないが、やはり共感力が役立っていたのかもしれない。あの人たちの分身を作り出してできるだけ気に障らないような言動をほぼ自動的にしてきたゆえに、被害は最小限だったのだろう。ただし、共感力といってもそれは相手に対する最大の想像であることは忘れないようにしたい。共感とて、どこまでいこうとも相手と完全に同じ気持ちにはなれないし、相手の腹の中などそれこそシュレディンガーのウンコなのである。実際に観測したわけでないので、そこに何があ在るか無いかなど誰も分からないのだ。
まあそんな致死量ほどの共感力を僕に育んだ母には感謝していたりちょっと恨んでいたりいろんな思いが交錯するが、とりあえず今年の誕生日は難なくクリアできたのでよかった。最近になってようやく少しだけ共感力のスイッチを落とすことができるようになってきたのもあるけど。心を無にして相手の考えていることを予想するのをやめることができるようになってきている。少しずつではあるが、僕は僕なりに、自分自身の手で生きやすい道を作り出しているのだ。